郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「皆田」(上月町)

2020-01-10 11:44:26 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「皆田」(上月町)    上月町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■ 皆田(かいた)
 大垣内村の西に位置し、西は杉坂峠を隔てて美作国英田郡田原村(現岡山県作東町)、北は吉野郡大聖寺村(現同上)。海田・甲斐田とも記す。

 古代・中世の美作道が通り、「太平記」巻四によれば後醍醐天皇が隠岐に配流される途次に杉坂峠を越えている。同書巻六によれば、元弘3年(1333)赤松円心が大塔宮の命旨を奉じて挙兵した際、まず杉坂に関を構えたという。「大乗院寺社雑記事」文明7年(1475)10月9日条によると奈良興福寺は同寺の維摩会講師のために甲斐田(皆田)紙一帖50枚を100文で購入している。延徳3年(1491)9月14日には後藤藤左衛門が京都相国(しょうこく)寺蔭涼(いんりょう)軒主亀泉集証に、甲斐田紙二帖ほかを持参している。戦国頃と推定される10月3日の某感状写(江見文書)によれば、江見(えみ)庄(現作東町)の江見新左衛門が海田において上月左京介と合戦している。慶長国絵図には「かい田村」とみえる。

 宝永6年(1709)海田村を皆田村に改めた(井上家文書)というが、のちにも海田村と書かれている。当村と大垣内・西本郷・福吉・中山の5か村で三折紙を漉いていたという。

 享保3年(1718)の櫛田組皆田村新林改帳によれば、当村次右衛門ほか19人が村内入会山に20か所の新林を立てていたことを櫛田村の大庄屋湯浅彦次郎が届出ている。江戸期にも『播磨鑑』の土産物の項に皆田村で皆田紙を漉くとあり、安政6年(1859)の「紙譜」に「播磨、皆田厚物類」とみえ、著名な銘柄であった。しかし明治中期には生産されなくなった。
 字茶屋ノ前の標高300mの山頂に中世の百々蔵(度々倉)(どどくら)城跡がある。幅9m、長さ26mの主郭を中心に東・南・北に郭が配置されている。特に東と南は堀で遮断して城域を区画している。山上に地元で百々倉と通称する人工の石窟がある。「日本書紀」天智天皇即位前紀条に「是歳、播州国司岸田臣麻呂等、宝の剣を献りて言さく、「狭夜郡(さよのこおり)の人の禾田(あわた)の穴内(あな)にして獲たり」とまうす」とある。『播磨鑑』は「禾田穴」について禾田の所在は不祥だが、米田村(現不明)、あるいは皆田村山中にある奇異な岩穴のことかと、百々倉比定説を記す。

 美作国境の杉坂峠の東麓に皆(海)田城(杉坂山城・榎城)跡があるが詳細は不明。後醍醐天皇が隠岐への配流の際休息した跡に碑がある。また杉坂峠にある灌漑用の西池は元禄時代藩主浅野氏により造成されたと伝える。

 明治22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、冬季に男子は製炭業関係の山林業務に従事し、婦女子もわら芯きりに励み、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。昭和50年南部の山麓を中国自動車道が横断。




◇今回の発見
・皆田ははじめは、海田と書かれていたが、その地名の由来は記されていない。
・皆田は日本書紀の宝剣にまつわる歴史ロマンがある。皆田の和紙は室町時代に奈良興福寺で利用されていた記録が残る。当時から有名ブランドだったようだ。
・杉坂史跡は赤松則村が設けた関所跡があり、隠岐に流される後醍醐天皇一行の救出に失敗した児島高徳の無念の地であると。


※ 上月歴史展示資料館には、皆田紙の原料や紙漉き道具(復元)が展示されている。それによると楮(こうぞ)の木から皆田の和紙ができるまでが詳しく説明され、使われた道具類が並ぶ。冷たい水にさらす作業をはじめいくつもの工程があり作業は大変だったと思われる。屏風や障子紙などに適した厚紙を得意としている。明治中期になり海外からの西洋紙に押され生産が終わる。西大畠で最後の紙漉きが昭和43年まで続けられたが、廃業。そのあと、上月歴史資料館建設を期に、保存会がその伝統技術を復活させ、町公民館で手漉き講習会を開いている。(上月歴史資料館 兵庫県佐用郡佐用町上月373番地)




▼上月歴史資料館 



▼保存会の作品



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1 コメント

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皆田城は関所を兼ねる (船曵忠明)
2020-08-05 15:32:57
皆田城は円心の築いた関所を兼ねた城
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