郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来 「五十波・田井」

2019-11-09 18:53:35 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「五十波・田井」  宍粟市山崎町

                                                           閲覧数2,111 件(2010.1.8~2019.10.31)


山崎町神野地区内

■五十波(いかば)

 播但中央山地の通称宮山の南麓、揖保川と支流梯川の合流付近。地名の由来は、揖保川の川波の多いことによるとも考えられるが、「風土記」石作里の条に伊加麻川(いかまのかわ)がみえ、イカマがイカバに転訛したとする説がある。

【中世】いかは 戦国期に見える地名。天正8年(1580年)頃と推定される正月28日の丹波守澄忠書状は「五ミやう・〈河東〉とう田・〈川西〉いかは・いせ・石作、此外所々惣御門徒衆中」に宛てられており、これは石山合戦の際に石山本願寺から宍粟郡の真宗門徒に寄せられたものである(願寿寺)。

【近世】五十波村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄10年(1697年)からは三日月藩領。
 神社は、石清水八幡宮(野口神社)・天満神社。石清水八幡宮は天徳年間(957~61年)の勧請と伝え、当村のほか田井・岸田・野々上の各村の氏神・寺院は、真宗大谷派永享山本源寺・日蓮宗長水山信徳寺。本源寺は永享12年開基、長禄元年(1457年)天台宗から改宗と伝える。当村は山崎藩町大年寄りなどをつとめ、「播州宍粟郡誌」や「播州宍粟郡守令交代記」の著者として知られる片岡醇徳の隠棲で、彼は生母の墓(永孝林)を設けた。当村には大豆・薬草(茯苓)の特産物がある。明治6年山田慶太郎宅に五十波学校開校、同校はのち遷喬簡易小学校になる。明治9年五十波郵便局開設。明治22年神野村の大字となる。

【近代】五十波 明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは山崎町の大字名。はじめ神野村役場が置かれたが、のちに田井に移転。明治22年~現在の大字名。22年に校舎改築、明治33年神野第一尋常高等小学校となるが、明治41年田井の神野第二尋常高等小学校と合併し、田井の現在地に移転。昭和42年の国道29号拡幅工事完成に伴い、昭和43年養護老人ホーム、昭和48年県立林業試験場が移設され、昭和51年精薄者授産施設が設置された。



■田井(たい)

揖保川中流右岸に位置する。
【近世】田井村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。江戸期は田位村とも書いた。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年(1716年)からは安志藩領。寛永8年(1631年)当村と対岸杉ケ瀬村間に渡し船開設。渡し守の費用などは、各村に割り付けた。揖保川の川床が低いため自村内の井堰からは用水を取り込むことができず、畠田造成は困難であった。天保12年(1841年)上流の隣村与位村の用地提供の了解を経て同村内に井堰を設け、用水の確保を図った。両村の間には、下岨(したほき)とよばれる岩場があり、岩に穴を開けて腕木を差込み、それを懸樋を渡し、岩場の外側を迂回するように用水を通した。また入り江になっている所には石垣普請をするなど難 工事であったが、備前国小島郡の石工が総額銀16貫でこの新溝工事を請け負った。新溝ができて4年後の弘化2年(1845年) 井堰の取水量が少ないので井口を上流に替えている。(以上、田井区有文書)。明治時代に中頃に与位の洞門が掘られ、今は洞門内を水路が通っているが、腕木の穴は今も残る。当村の特産物に鮎、紫胡(杏茸)・五味子などの薬草がある。

 神社は、大社(たいしゃ)神社。当村民は五十波村石清水八幡宮の氏子でもある。寺院は、真宗大谷派福城山本学寺(本学坊)。同寺は天文5年(1536年)の開基といい、安永10年(1781年)法雲寺(現龍野市)から独立したという。明治6年本学寺に田井学校開校、のち入徳学校と改称、明治15年博文小学校分校(山崎町史)。

【近代】田井 明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和33年入徳学校が神野第2尋常高等小学校となる。昭和38年簡易水道施工。昭和42年国道29号拡幅工事完成。昭和46年野田橋架設。昭和55年神野コミュニティセンター落成。


◇今回の発見
 五十波の地名の読みは難解で、不思議な響きがある。地名由来の一説に風土記にある(梯川)伊加麻川からきたという。この川は「烏賊(いか)が川にいた。だから烏賊間川という。」しかし烏賊が川にいるわけがないので、諸説乱立である。

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