【閲覧数】2,549 (2013.3.23~2019.10.31)
閑静な温泉地というイメージのある鹿野に因幡の城跡探索のために十数年ぶりに訪れた。水をたたえた堀と静かな町のたたずまいの中に因幡・伯耆と呼ばれた頃の歴史を感じることができた。
▲江戸期の因幡 鹿野往来
鹿野城跡のこと 気高(けたか)郡鹿野町(現鳥取市鹿野町)
鹿野は古くから山陰道の交通の要衝にあり、因伯(因幡国・伯耆国)の支配をめざした諸軍勢による争いの中心地となっている。
鹿野城(別名王舎城)跡は、お城山(標高152m)に築かれた。築城年代は明らかではないが、山名氏の配下であった国人領主志加奴(しかぬ)氏の居城であったという。明徳2年(1391)山名氏清・満幸が足利氏率いる幕府軍と戦った時、討死した武将の中に志加奴八郎が見える。
次いで、天文13年(1544)出雲の尼子晴久が因幡に乱入したとき、この城は攻撃を受け、城主志加奴入道は激戦の末自刃している。
永禄年間(1558〜70)には因幡守護山名誠通の子山名豊成(とよなり)が布施の天神山よりここに移った。
天正初年(1582)には山名氏に変わって毛利氏の勢力が伸び、この城は毛利氏の手に落ちる。
天正9年羽柴秀吉の鳥取の制圧により、鳥取城攻めに功のあった尼子の遺臣亀井茲矩(これのり)が鹿野城主となり気多郡(けたごおり)が与えられ、関ヶ原の戦いでは東軍に属してさらに高草郡(たかくさごおり)を加増され3万8千石領している。領内の干拓、用水路の開発、銀の採掘に尽くし、朱印船による東南アジア諸国の貿易などを手がけている。嫡男政矩(まさのり)のとき元和3年(1617)石見国津和野に移封した。
寛永17年(1640)播磨国宍粟藩6万3千石の池田輝澄がお家騒動による改易を受け、甥の鳥取藩主池田光政の預かりにより、妻子共々捨扶持(すてぶち)1万石で鹿野に配流された。寛文2年(1662)には、輝澄の遺領を継いだ政直が播磨国福本に1万石で移封した。
アクセス
城山の麓にある鹿野中学校を目指す。山城周辺は鹿野城跡公園として整備されている
外堀から内堀へと進むと、城山神社の鳥居前に至り、駐車場がある。山城跡へは、城山神社鳥居をくぐることから始まる。
▲城山神社前に駐車場がある
▲まっすぐに伸びる石段
▲城址の由来
▲整備された城址公園
さらに進んでいくと、右手に曲輪跡がある。西の丸といい山城部分の曲輪として最も広く、礎石が残り城主亀井茲矩の隠居所跡と伝える。
▲西の丸(城主初代藩主の隠居所)
次になだらかな石段を進むと、右奥に城山神社が祀られている。
▲なだらかな石段 ▲城山神社
この先がいよいよ山頂部の天守台跡だ。虎口の階段を進むと14~15mの四方の広さがあり、周囲には真四角に敷き詰めた礎石列が残る。
▲天守台の前の虎口 ▲14m四角の天守台跡
▲天守台礎石 ▲天守台跡の図面 説明版より
天守台跡の周辺は樹木に覆われているが、北部の1箇所から眼下の町並みとその向うの山々が望める。
▲天守台からの展望
▲外堀と城下
天守台跡の後部(南)には小さな曲輪跡と南に降りる搦め手道と思われる道がある。
▲天守台の後部(曲輪跡) ▲後部の石段
雑 感
亀井氏の代に城や河川改修などの大改修がなされたとあるが、中世の頃の山城部分には天守周辺と居館跡以外はあまり手が加えられていない印象をもった。
近世の平城の多くは、堀が埋められ道や宅地になり、その形跡が失われていくなかにあって、この鹿野の城跡は、外堀・内堀が今なお水を湛えて、美しい景観が残されてきた。城下には殿町・立町・上町・下町・大工町・鍛冶町‥の地名が残り、その中に京格子の町屋が点在し昔の面影をとどめている。家々の門先に添えられた四季折々の花が目に優しい。
◆ 鹿野の町かど
▲点在する町家
▲家々に添えられた四季折々の花
◆ 町中にある幸盛寺で山中鹿助の墓を発見!
▲幸盛寺
▲山中鹿助の墓
【関連】
・石見 津和野城をいく
・山崎城(鹿沢城) 宍粟藩初代藩主池田輝澄の足跡を訪ねて
・上月城落城と山中鹿助幸盛
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