(2018.5.12~2019.10.31)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/9b/da3355719e5ccf77fd38f175652cdf5f.jpg)
▲寺前城全景 南より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/5f/9ad152d6cd21795d1b5e982e5bdab299.jpg)
▲城山からの風景
寺前城跡は播但の南北に流れる市川の中流域神河町寺前にある。城跡は市川と支流田原川との合流点の北に裾野を大きく広げた城山の山頂にある。
この寺前という地名は、鎌倉時代の建長7年(1255)北条時頼がこの地に逗留し、伽藍が再建され、寺の前にある村であったことから名づけられたという。
寺前城跡のこと 神崎郡神河町寺前
城域は、城山(約460m、比高約350m)の頂上部、東西約110m、南北約75mあり、南から北へ続く尾根筋上に「口の城」、「奥城」があり、最上部の主郭(約10m四方)とその周囲に数段の帯曲輪が取り巻いている。主郭の北側には土塁跡が残り、その外辺には石積みが見られる。
奥城の主郭の北側と口の城の北側に堀切があり、北部と南部の尾根筋からの侵入を防いでいる。口の城からの展望がよく、かつて大河内庄と呼ばれた庄園が手に取るように見通せる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/39/b5708d277cc9b9abea5552ea1d119b59.jpg)
城主と戦いの記録
城主や城史については、詳しくはわかっていない。伝承では、本郷伊豆守また大河内阿波守とも伝わっている。
文献には、正平6年(1351)大河内合戦で赤松則祐と山名時氏が「大河内城」で戦ったとあり、この大河内城は寺前城を指すと考えられている。天文13年(1544)、大河内阿波守が西明寺(最明寺カ)において討死している。「書写山十地坊過去帳」
戦国末期の天正6年(1578)長水城主(宍粟市)宇野祐清の軍勢が大河内表(寺前カ)へ押し寄せ、置塩城主赤松則房の軍勢の柏尾城主粟生田氏(神河町)・飯盛山城主高橋氏(市川町)と激戦を交え、双方に犠牲が出ている。「上月文書」、「安積文書」
宇野祐清軍の大河内表(寺前)への攻撃ルート推定図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/83/98010ea1c746f7ac011ae940360b8197.jpg)
城山の山麓に居館跡
寺前集落の東端、金谷神社の西側一帯に相当の手を加えた構・居館跡がある。それは東西約50m、南北約15mにわたり数段の土塁跡と石垣跡が残されている。
神河町は生野街道の要衝地にあり、播磨赤松氏と但馬山名氏との攻防の地となり、戦国末期には羽柴秀吉の播磨侵攻によって赤松一族が敵味方となり争っていたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/5d/9fab032b05b4162c85e385d682820e8f.jpg)
▲構跡と思われる石垣
※「史料提供:喜多宏高氏」
おくはりま 2017vol.9 Autumnより転載 写真・図追加
アクセス
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/d8/0299013795d5a2d69586f3626a068af6.jpg)
城山の南麓にある最明寺の左詰めの防獣フェンスを開け、登って行く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/c8/640268ca4b26b216bbf3b29979705511.jpg)
最明寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/7c/2b8113a4f346d4371065eb129dc902e2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/7e/06fda9c38e98301ecbb8a02cd63a45df.jpg)
▲最明寺境内の左詰 ▲この先が登城口
尾根筋に向かって左寄りに登って行くと、石仏が建ち並んでいる。山道に添う杉の木にマーキングがあるので、それを頼りに登ればまず迷うことはない。杉林が終わったところからは、やや急斜面になり、ロープが用意されているところがある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/65/dc8f1c39ed248bc106ad847f6c734d2c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/a5/d0b9f955b78528e28d35dc357b2f3b8d.jpg)
▲フェンスが登城口になる ▲石仏が立ち並ぶ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/ce/fd34650b91c6a1b5e0da541a31edc905.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/ef/6b77c4a16918535ddb6d629f0007e51b.jpg)
▲杉の木のマーキング ▲杉林を過ぎるといよいよ城跡は近い
約30分で、「口の城」と名付けられた曲輪跡に到着した。寺前城跡と標識が建てられているが、主郭のある「奥の城」はこの先にある。
この曲輪からの展望は格別である。この最初の曲輪の先には堀切があり、見張り台として機能をしていたことが容易にわかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/01/c240a0de7477dc964fa0709db5a44c77.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/c6/87c56ab9297fd2aa989537421a7ab1ed.jpg)
▲寺前城跡の標識 ▲堀切
堀切を超えるとなだらかな尾根筋となり、次の傾斜を登り切ったところが主郭のある「奥の城」だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/b1/cda57703a946242fbea024d53e93ec75.jpg)
▲盛り上がったところが主郭
帯曲輪の上部が主郭(本丸)。その北端には櫓跡と思われる土塁があり、その外側には石積みが見られる。左手の西側にかけて帯曲輪が見られる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/30/3c61f639568fdc6f1012543f8b9f4ee6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/83/629a1fc16712f19f4139170ec8e778a1.jpg)
▲櫓跡の石積 ▲西から見た櫓跡(土塁跡)
主郭の右(北東)に降りていくと、堀切がある。これは北東に続く尾根筋からの侵入を防いでいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/32/305ac6e9c61e83d8886c3ddd181e8b1d.jpg)
▲主郭下の堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/a8/7ebf50ce6bb3d3b0c423b34a01baf5b5.jpg)
▲主郭の北につながる尾根筋からみた展望
東山麓の構・居館跡
東山麓にあたる寺前集落の東端に金谷神社があり、その玉垣の左端から斜面を登ると、石垣や石列が棚状に見られ、構跡と屋敷跡と思われる遺構が続いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/68/99797b0c0576399cbd0a90b1fb363e2b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/33/4317e0f06094ef22a4385da8356c4099.jpg)
◆城郭一覧アドレス
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます