郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

備前 徳倉城跡 

2020-07-08 09:16:49 | 城跡巡り

 今回は、徳倉(とくら)城です。この山城は、岡山城の北方に直線コースで約15km、岡山空港から東2~3kmの地点、旭川中流域の山間部にあります。街道筋でもなさそうなところで、まして備前ではお目にかかったことのない、みごとな石垣に出会い感動した城跡です。




▲北からの鳥瞰   by Google Earth




備前 徳倉城跡のこと  御津郡御津町河内(岡山市北区御津河内 )


 旭川の支流三谷川右岸の遠藤山の山頂(232m、比高170m)にある連郭式山城である。主郭周辺に曲輪、石塁、堀切、土塁、井戸が見られ、尾根筋・突端にも曲輪、堀切が見られる。
 城史については、康安2年(1362)高師秀(こうのもろひで)が山名勢に攻められ備前徳倉城へ退いたと『太平記』にある。備前松田元澄(元隆)の三男親秀が文明8年(1476)に居城していたと伝える(「松田氏系図」)。
 松田元隆は本拠地金川城と富山城の間にあるこの城を松田元成が金川城を整備した頃に出城にしたようで、松田氏の重臣(家老)の宇垣氏が代々居城したと伝えられている。天分年間(1532~55)から永禄5年(1562)頃には宇垣一郎兵衛が城主であった。

 永禄11年(1568)宇喜多直家は徳倉城主宇垣氏を殺害し、松田氏の金川城を攻め城主松田元輝と子元賢を滅ぼした。この徳倉城には家臣遠藤河内守を入れた。天正20年(1590)頃には遠藤河内守はこの城に城番を置き、岡山に移住した。関ケ原の戦い後、小早川秀秋のとき廃城となった。

参考:『日本城郭体系』



▲説明板の徳倉城鳥瞰図に登り口に番号を書き加えた




▲現地で入手した鳥瞰図と平面図



アクセス


登り口は県道側に①、②の2か所と搦手登山道③がある。今回は、県道沿い②から登城した。





ここを登っていくと竹林があり、それを抜けるとヒノキの平地に出る。このあたりも城域のようだ。



 



次の小山(出丸跡)を登りきると、なだらかな尾根筋が続く。



 
▲出丸跡                                                                ▲なだらかな尾根筋


小山から長いゆるやかな尾根筋を通り抜けると次は、山頂へ向かって急な斜面を右に回り込むと、大手筋にあたる石積みを施した帯曲輪が上に連なる。途中、岩を穿った井戸跡がある。



 



▲井戸跡


石積みの帯曲輪を数段登りきると、みごとな石垣の壁が目の前に現れた。




▲本丸の石垣



▲本丸の石垣(北詰)


 ここまで40分以上は歩いただろう。この高い石垣を見て、汗も疲れも一瞬に吹き飛んだ。高さ4~5m横向きに整然と組まれた石垣に圧倒された。平地ならしも、比高170mの山頂である。400年を経てなお、健在である。




▲広い本丸跡




▲本丸の南詰めの細長い櫓台跡、中央に石階段がある




▲本丸からの唯一の展望 東南方面




▲二の丸跡(北詰め)




▲上下2段の石垣(上は本丸の南石垣)



本丸の東側に搦手登山道があり、そこから下城した。搦手登山道は案内板が設置されている。



 
▲本丸西の搦手道                                             ▲搦手登山道の案内表示板



▲表示板
 


 
▲谷あいの民家近くに下山 



徳倉城主宇垣一郎兵衛供養塔  徳倉神社前
  



 
雑 感 

 徳倉城主であった松田氏は、室町期初頭松田十郎盛朝のとき備前守護職を得ている。戦国期には富田城から金川城に拠点を移し、備前西に一大勢力を持ち戦国大名になる力量があったようだが、宇喜多直家が行く手を阻み全てを奪った。

 松田氏の本城は金川城、その出城的役割をもっていたのが徳倉城だとして、ではなぜこの宇喜多直家もしくは秀家は徳倉城という山城を石垣の城に改修し、家臣遠藤河内守に守らしたのかその目的が見えてこない。
 この城の向きは東で、東にのみ眺望がきく。その先には、6年後の天正2年(1574)に決戦をいどむ主君浦上宗景の天神山城がある。いつかその日を見据えて出城として装備を加えたものだろうか。

 直家は天下の落ち着くさまを見ずに天正10年(1582)に53歳で亡くなっている。
 
 


城郭一覧アドレ
  

最新の画像もっと見る

コメントを投稿