もう一つの宍粟 ① 開拓団の足どり
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◆ 北海道開拓に骨を埋めた宍粟人がいた
今から約120年前の明治27年(1894)のことです。蝦夷地(えぞち)と呼ばれた北海道石狩平野の、篠津(しのつ)原野に開拓団として骨を埋めた宍粟人がいました。長い月日の流れの中で、いつしか忘れ去られ、歴史の片隅に消え去ったかに見えた人たちの記録。それは北海道開拓団による入植者たちの血と汗と涙の足跡。
その足どりが彼らの離れていった故郷と入植地の新篠津村で見つかりました。百年以上を経ていくつかの偶然と古文書学習会の人たちの地道な追跡により、よみがえりました。
◆ もう一つの宍粟 「石狩郡新篠津(しんしのつ)村宍粟」
~ それは、生徒が偶然見つけた「宍粟」の地名から始まった ~
調査の経緯
1、平成8年秋山崎東中学校の生徒が社会科地理の教科書に載っていた北海道の地形図に偶然「宍粟」の地名を見つける。それに関心をもった担当教師が種々問い合わせた結果、明治の中頃、宍粟郡からの開拓団の入ったところの地名であることが判明。
▼社会科地理の教科書
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▼北海道の地形図
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2、同時期、本多藩の藩医「松ノ木安原家」の古文書整理中に偶然、当時の宍粟郡勧業会発行の小冊子中に、この開拓団の報告文書を発見。※1
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3、その後、老松酒造社長前野善次郎氏が関係していることがわかり、「老松酒造二百年史」に開拓団の発起人関係者の名を発見。※2
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4、さらに山崎旧大庄屋の「庄家文書」には開拓団メンバーの年賀の控えが見つかる。
5、北海道開拓団の結成の動きをつかみ、北海道の現地(新篠津村)への問い合わせと現地取材に至る。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
※1 北海道拓殖組合「宍粟農場」
社長・河瀬勇次郎(山崎)
役員 農場長 ・香山昇(揖保郡)
取締役 ・生沢庄左衛門(神戸村) ・吉野平次郎(宍粟郡) ・黒田重太郎(田井村)
役員の他の移住者氏名
・後藤常松(宍粟) ・山本只吉(安志村)・千本乕吉(城下村) ・河瀬房吉(山崎)
・荻村義三郎(宍粟)・横野庄助(宍粟) ・古川定八(門前村)・吉田源吉(福知村)
・植木ツキ(福知村)・飛石(村名記載無し) ・新庄只次郎(船越村) ・高嶋松ノ助(菅野村)
※2 「老松酒造200年史」には、河瀬勇次郎、香山昇両氏が中心になり北海道拓殖組合宍粟農場の計画がたてられ、当時としては僻遠(へきえん)、さい果ての蝦夷を目指したその遠大な理想に生きようとした同志に多大の金銭的精神的応援をし、道素(前野善次郎)自身現地まで足を運んだものである・・・とある。
参考「石狩平野 篠津原野への挑戦」横井時成・柳田弘・鎌田裕明共著、資料「北海道 新篠津村に至るまでの経緯」横井時成
⇒もう一つの宍粟②につづく
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