【閲覧数】4,773件(2011.9.22~2019.10.31)
安志藩(その2)~小笠原氏について~
安志藩初代藩主は小笠原長興(ながおき)。着任当時は弱冠5歳。この小笠原氏がどのような理由ではるばる豊前国中津(現大分県中津市)から西播磨の山間の地宍粟郡にやってきたのでしょうか。
▼豊前国中津から宍粟郡安志までの遠き道のり
▼ 中津城
▼中津城周辺図
▼安富町安志周辺 昭和40年頃(「町勢要覧1966」より)
まずは小笠原家の家系を見てみましょう
▼小笠原家略系図
1)小笠原家の家祖~小笠原流~
▲小笠原長清(弓馬術礼法小笠原流の祖) 画:江戸時代『前賢故実』菊池容斎より
小笠原家は、譜代の小藩で、甲斐国(かいのくに・山梨県)小笠原を出身地とする小笠原長清(ながきよ)を家祖とする名門といわれています。鎌倉期には足利尊氏に仕えた貞宗(さだむね)は、信濃国守護となり以後繁栄し、武家礼法(小笠原流)の家として重んじられてきました。
2)祖先の功労と安志藩立藩までの流れ
元和元年(1615年)大阪夏の陣で、徳川方の小笠原秀政(松本城主)・忠脩(ただなが)父子は討死しました。家督は秀政の二男忠眞(ただざね)(忠政)が継ぎましたが、忠眞は、胎内にいた忠脩の子の長次が生まれるや養育し、長次が11歳の寛永3年(1626)6万石で播磨国龍野に封じられました。長次が龍野藩主に取り立てられると、忠眞は長次を正嫡として代々の重宝を譲り、代々の重臣の犬甘(いぬかい)氏を付けて補佐させました。その6年後、寛永9年(1632)豊前国中津八万石に移りました。忠眞は明石10万石から小倉15万石に加増鞍替えになりました。
このように小笠原秀政の子の四兄弟が豊前・豊後・肥前の北九州地方は小笠原一族が領することになりました。
その長次の後継は、長勝(ながかつ)→長胤(ながたね)[8万石]→長圓(ながのぶ)→長邕(ながさと)[4万石]と続きましたが、享保元年(1716) 長邕が6歳で没し、いったんは無嗣断絶になりますが、祖先の功労(大阪夏の陣)により特別に家名の存続が許され、弟長興(ながおき)に宍粟郡内及び他2郡の領地1万石が与えられ播磨国宍粟郡に来ることになったわけです。
3)宍粟郡と中津との関わり
以後、安志小笠原家と北九州の各藩、特に小倉藩とは密接な関係が出来上がりました。さらにさかのぼると、羽柴秀吉の軍師として活躍した播磨国姫路生まれの黒田官兵衛が、天正12年(1584)に宍粟郡を受領し篠の丸城主となり、3年後の天正15年(1587)に豊前国の中の6郡(およそ12万5,000石)の中津城主となっています。その中津城の城主は黒田氏のあと細川氏につづき小笠原(長次)氏が受け継いでいるのです。
また、官兵衛の嫡男黒田長政は、関が原の戦いで東軍の家康について大手柄を立て、52万3千石の筑前福岡藩主となっています。
このように地域の藩主変遷の歴史の中に播磨国宍粟郡と中津及び広く北九州(豊前・豊後・肥前)一円の結びつきがあったのです。
・参考『安富町史』
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます