郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 篠ノ丸城跡 ~大手口周辺の探索~

2019-10-21 00:02:36 | 城跡巡り

篠ノ丸城跡~大手口周辺の探索~



▲篠ノ丸鳥瞰 by google

  郷土の中世史は赤松氏及びその一族宇野氏の足跡でもあるが、篠ノ丸城、長水城の落城とともに消滅し、空白の歴史となっている。城主宇野氏の居館や揖保川流域を治めた政庁がどこにあったのかも不明である。その遺構の篠ノ丸城の南麓大手口の山崎八幡神社周辺を地名を手がかりに探ってみた。

門前に古代仏教寺院跡

 奈良から平安期に宍粟郡内に唯一古代仏教寺院が存在していた。それは「播磨千本屋廃寺跡」である。伽藍配置されたりっぱなものであったことが発掘によって証明されている。その廃寺跡の軒丸瓦と同種のものが、門前で発見されている。つまり門前にも古代寺院があったと思われるが、宅地化になった今ではその全貌は知る由もない。いえることは西播磨の北部宍粟市山崎町にまで仏教が浸透しその文化が花咲いていたようである。

門前の字限図が示すもの

 現在その門前に山崎八幡神社が鎮座している。門前の地名由来で、神社の前なら宮前もしくは宮下ならわかるが、なぜ門前なのか前々から気になっていた。地名や城郭に興味をもち、城郭調査で入手した門前の字限図に記された地名とその位置に関心をもった。そして篠ノ丸城跡の山麓周辺の調査によって、一つの答えを導き出すことができた。



 


山崎八幡神社の移転と宇野氏の奉納額

  地名の位置関係は八幡神社からみて神社は字東大王寺にあり、東の字的谷のさらに東隣りに字宮ノ谷、西の谷に字大王寺がある。八幡神社は社伝によると応仁元年(1467)、加生(一部は門前)の今宮から門前村字東垣内に遷座したというが、それは字宮ノ谷であったのだろう。
 八幡神社に三十六歌仙図額が宇野村直より奉納されたことが近年発表された。それは八幡神社が宇野氏のゆかりの神社であったことや当時の山崎が文化豊かな地域であったことをうかがわせている。



▲小鴨神社所蔵(倉吉市) 三六歌仙額(一部)と裏書

※裏書などから、1537年に兵庫県宍粟郡(現在の宍粟市)を治めていた宇野氏が山崎八幡神社に納め、1632年に小鴨神社へ移されたとみられる


大王寺は宇野氏の菩提寺か

 字大王寺は八幡神社境内の西の谷の今は杉林のうっそうとした段状の湿地で、戦前までは田んぼだったという。この地形をよく調べてみると寺院と僧坊跡ではないかと考えている。「大王寺」は地名にのみ残された幻の寺ではあるが、篠ノ丸城跡の大手道にあり、周辺の遺構や地名考から宇野氏の菩提寺であった可能性がたかい。     
 いずれにせよ宇野氏ゆかりの寺社は秀吉軍により焼失し、そのあと神社が現在の地(字東大王寺)に移転・再建され、江戸初期より代々の藩主により手厚く保護されてきた。


門前の古屋敷とは

 さらに字大王寺の南方に古屋敷がある。古屋敷は宍粟藩ができるまでの中世後期にはすでに町場化されていたと考えられ、門前の門は大王寺のことではないかとの結論に到るのである。
 宇野氏の本拠は篠の丸山麓にあり、居館や寺社を中心に門前町が栄えていたのではないか。一方、篠ノ丸城の搦手口の横須には上屋敷、屋敷の字が残されている。城の搦手を守る屋敷があったのであろう。


歴史文化に関心と誇りを

 篠ノ丸城跡が黒田官兵衛飛躍の地として注目されているが、赤松一族の宇野氏が篠ノ丸城・長水城を根拠に中世後期、赤松総領家をもしのぐ勢力を有し、西播磨八郡を支配した宍粟武士であり、社会、文化面で貢献してきたということを知る機会でもある。    
 これを契機に市民の多くが郷土史に関心をもち、貴重な歴史文化遺産を地域の誇りとして子に孫に語り伝えていくことが今宍粟市に生きる我々のすべきことだと思っている。

◇山崎郷土会報122号2014.3.10発行より転載(一部修正及び写真の追加・カラー変更)



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