北八へ行くなら高見石に限るという思い込みがあった。山の師匠のひとり、Mさんに連れられて冬の北八へ入って以来、ここの雰囲気が気に入り度々訪れた。単独だったり、二人だったり、夏には息子と行ったこともある。雰囲気が良いこともさることながら、アプローチが短い点が良かった。バスの終点渋ノ湯から1時間40分で高見石小屋に届く。賽の河原で吹かれたこともあるが、細竹に巻かれた赤布を頼りに行けば、なんとか小屋にたどり着く。ずーっと、そう思い込んでいたのだが、'00年頃から状況が変わった。バスをチャーターすれば、八ヶ岳や北八の一部は、日帰りが可能で魅力あるコースが沢山あることが判ってきて、SHCの目的地として採り上げられるようになった。'00年編笠山、'02年麦草峠周辺、間を縫ってグループ山行も多くある。そして集大成は'03/8集中山行となる。
このように八ヶ岳が踏まれてくると、当然情報も集まってくる。'05/1の北八グループ山行は縞枯山荘~北横岳~茶臼岳であった。冬山初心者も混じった13人の大部隊だったが案ずることはない。横岳ピタラスロープウェイを利用したからだ。僅か10分で標高2,233mの山上駅に着く。当日は風が強く、我々が乗ったゴンドラをもって運転中止になったことは、降りてから知った。装備を整えて出発。僅か15分で今日の宿泊小屋「縞枯山荘」に着いた。受付を済ませ、今夜の寝る場所を確かめてから、仕度をし直して出発した。目指すは北横岳。坪庭を通過すると急登になるが、樹林帯の中をジグザグに道が切られているので、比較的登り易い。北横岳ヒュッテを過ぎてからが本格的な上りになる。我々の班は若干遅れたが全員無事登頂。強風と視界不良で山頂には長居はできず、記念写真を撮っただけで、もと来た道を引き返した。それでも一応成し遂げた感を抱いて山荘に戻ったところを絵にした。ちょうどA夫妻が入口に差し掛かったところを写真に収めたので、原画の中にもしっかり入れた。一般的に冬景色を彫る時は悩むことが少ない。色彩が乏しいから。雪は白で済み、陰は黒、これに青と灰色の版を用意すれば大概の冬景色は描ける。悦ちゃんのザックは、後で紅をさした。
白状してしまえば、この画にはお手本がある。縞枯山荘の談話室の壁に、おそらくプロの仕業と睨んでいるが、山荘を昼と夜の姿に彫ったものが掲げられている。非売品と言うことだったので、やむなく池田版を起こしたというのが真相。その作品には比べようもないが、私の中で縞枯山荘が高見石小屋同様、身近な存在になったのは確かである。この図柄は自分でも気に入って、翌年の賀状にしたので、手にされた方も多いと思う。
この絵には、後日談がある。'06年、渋ノ湯~青苔荘~縞枯山のとき、自作の額に入れてこの画を持参した。F6号とはいえ、余白を取って額装すれば横60cm、縦50cmとなり、運搬が難しい。背負子[しょいこ]にミレーのザックと共に括りつけ持って行った。小屋番は直ぐ最寄りの柱に、もたれかけて置いてくれたが、その後どうなっていることやら。'08/8北八合宿の時、一休みしながら画の存在を確かめたかったのだが、雨の中の歩行となり、私を含め皆ロープウェイ駅に急いで向かっていたため果たせなかった。次に訪れることが待ち遠しいし、楽しみである。
(2009年8月、IK記)
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2005年1月の縞枯山荘
しらびその森を行くIK氏
【2024年10月記】
それまで冬は、安倍奥や高遠の少年自然の家を使ってXCスキーなどで遊んでいたが、2000年の正月から北八ツに通うようになった。殊に冬季には山小屋でまったりと飲み交わす時間が嬉しく、営業している小屋が多くアクセスも容易な北八ツは有り難かった。この時も宿泊は縞枯山荘でIK氏も一緒だった。版画となった2005年の山行は14名の大パーティーで、これが会の冬季合宿のきっかけとなったものだ。
IK氏が気にされていたその後の画の存在であるが、2012年1月、久しぶりに縞枯山荘に泊り、お手本となった2枚の「プロの画」と並んで小屋の談話室の壁に掲げられてあるのをIK氏と共にしっかりと確認した。
小屋に掲げられたIK氏の画(左)
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