粟ヶ岳山頂からの富士山
2024年最後の会山行は、我がランドマーク「粟ヶ岳」へ東側の大鉄・日切駅から目指した。馴染みの粟ヶ岳へは、東山いっぷく処、西側の倉真温泉、そして本年8月には南側の西山から登っているが、日切からは初めてのこと。昔々に(中学の遠足?)金谷から登ったような記憶が微かにあるが、ここからだったのかは定かでない。
志戸呂の坂途中からの富士山
台地の上の行人塚
近づいてくる粟ヶ岳の「茶」文字
志戸呂の坂を登って台地の上に出ると行人塚が建つ。1603年(慶長年間)、大井川の氾濫で島田宿が消失し山側の元島田(島田市医療センター南側))に移転し、島田市大鳥、大井川渡河、牛尾山、島田市(金谷町)志戸呂谷北という中世のルートが復活、1614年まで約10年間、仮の東海道とされた。ここはその一部で碑には「正徳二年巳八月二日 帰真 満願院全行得道上座霊位」と彫られている。数10メートル先には摩滅が進み判読困難となった石の道標があって、古くからの街道であったことが窺われる。直進すると小鮒川・日坂へと下っていく慶長の仮東海道のルートとなる。今回は右折し安田(あんだ)へと向かう。進むに従い粟ヶ岳の「茶」の字が随分と大きくなり、茶畑を前景に存在感のある山容が望まれる。途中には国営農業水利事業(平成9年度完了)の大きな調整水槽がいくつもあって、大井川の川口取水工から水路橋を経て大代の牧之原揚水機場から揚げられた水が溜められている。
安田の大ジイ
粟ヶ岳北東中腹の集落・安田(あんだ)には、県指定天然記念物のスダジイの巨樹があって神仏をその懐に抱えて悠然と立っている。樹高は27メートルとそれほど高くはないが、枝張りは東西26メートル、南北23メートルにも及び、八俣の大蛇(やまたのおろち)のように八方の天空に枝を張りくねらせ、一樹なのに一つの森のような風貌を持っている。ところで[安田/あんだ]という地名だが、[あだ]とルビが振られていることもある。『民俗地名語彙事典』(ちくま学芸文庫)によれば「アダ ①オク(奥)に対する里がアダ ②日あたりのよい土地」とされている。金谷安田の場所を見てみると、粟ヶ岳北東に位置し、東側が開けた菊川上流部の小さな谷であるから、「①オク(粟ヶ岳)に対する里 ②日あたりのよい土地」の語意を充たしていると思われる。
名残の紅葉
安田から奥貝戸を経て東山からのハイキングコースに合流すると、ひと登りで山頂の阿波々神社に到着、本年の山登りの無事を感謝し参拝後、眺望の効くかっぽしテラスで暫し富士山や伊豆半島(やや霞みがちであったが)、そして眼下の大井川とわが町の景観を楽しんだ。山頂には「かっぽし(刈干し)」で作られた来年の干支・蛇が飾られ、多くのハイカーで賑わっていた。
粟ヶ岳山頂の大蛇
大代のジャンボ干支
下山は岳山との鞍部から小尾根を大代に下って、山頂のそれに比べてジャンボな二匹の大蛇が飾られた「大代ジャンボ干支」会場に、予定時刻の11時半に到着した。こちらも大賑わいであったが、大蛇をバックに参加者全員で集合写真を撮って、本年最後の定例山行を終了した。その後は迎えのマイクロバスに乗車し川根温泉へ移動、忘年会を楽しんだ。
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