オークランド通信

のんびりしたお国柄が気に入りニュージーランド在住27年。仕事、子育て、生活全版にわたって語ります。

その2 仕事探し 27-07-04

2007-08-15 09:43:41 | 第1-10回
その2・・・仕事探し

ここ一ヶ月寒い日が続いてます。なんといってもこちらは冬ですから。暖炉の火
が耐えないよう、一日中まきやら石炭をくべてます。でもオークランドの気温は
平均12度ぐらいだから、ちょっと寒いのをうれしがって火を炊いているんです
けどね。

さて今回は、私の仕事探しについて書きたいと思います。それは1993年のこと。

オークランドにやってきて2ヶ月がたち、私は、専業主婦にたいくつし始めてまし
た。これまでこんなに長く家にいたことはなかったし、友達もなく、昼間のテレビ
のソープオペラはつまらないし。夫は職場に、子供たちはそれぞれの学校に馴染ん
できたし、そろそろ仕事を始めてもいいかなと思いました。

ここでの職探しは月曜日の新聞を買うことから始まります。月曜のヘラルドの
Situations Vacantのコーナーに目を通し、職を捜します。たくさん職があるように
見えるけど、実際に募集していて、私に向くのはわずか。これまで聞いたことの
ないような職種もあって、まるで雲をつかむようです。
後で知ったことだけど、ニュージーランドの会社は欠員があると、新聞等に広告を
出すことが義務づけられてます。たとえ、内定していても、その人よりも優秀で
その職に向いている人にチャンスを与えるためです。
これは、会社がワークビザをだして外国人を雇う場合も同じです。しょっちゅう
新聞に目を通し、慣れてくると、これが本当のSituations Vacantかどうかわかっ
てきます。特殊な条件や、資格を要求しているのと、一回きりの広告はあやしい
ですね。

私の場合、ヘラルドと地域のただで郵便受けに配布される新聞から探しました。
花に関する仕事を捜していて、ある日、二つの新聞に”Floral Arts & Crafts
tutor”という募集を見つけました。同時に二つの新聞に載せるんだから、
きっと本当の仕事だろうと踏んだわけです。

Floral Artsというのはなんとか教えられると思ったけど、 craftsというのはいっ
たい何をするのかわからないが、まあなんとかなるかと思い願書を出しました。
小さなフラワーデザイン教室だろうくらいにと思ってました。 
後にMaori Arts & Craftsに対して、フラワーデザインを教えるクラスということ
が、勤めだして判りました。
マオリ人は独特な工芸技術も持っており、それを若者に継承するコースもあった
のです。マラエ(マオリの集会所)を飾る巨大な木彫りや、牛の骨を使ったボーン
カービングが教えられてました。

何十もApplication Letterをだして、やっと面接にこぎつけると言われていたので
、一回目の願書で、面接の電話がかかってきたときは驚きました。その頃の私は、
英語もかなり頼りなかったと思うのですが。

目指す学校は、空港に向かう橋を渡ったところにありました。
最初、同じ名前の通りのショッピングセンターのあるほうを探したけれど、学校が
見つかりません。捜す番地がないのです。通りがかりの人に聞いたら、高速道路の
反対側だと言います。後からできた高速に道路が切断されていたのです。橋のとこ
ろまで戻って、広大な空き地をぐるっとまわった所に目指す学校はありました。
オークランドにやってきてから、New Marketや自宅周辺しか、行ったことはなかっ
たし、とんでもないところにやってきてしまったと感じました。

今考えると、通りをはさんで、スーパー、肉や、銀行、郵便局など生活に必要な
お店はひととおり揃った、ビレッジと呼ばれる典型的な郊外のショッピングセンタ
ーでした。

やっとたどり着くと、道をはさんで、右側にはマラエ(マオリ人の集会所)、
左手には事務所と教室、それを取り囲むようにコーマツア(長老達)の住宅が建っ
ています。そこは他のオークランドの町とは全く違った雰囲気で、トーテンポール
などあり、インデイアンの村のようでした。

よく見ると、学校の前にはネッカチーフを被ったマオリ婦人の銅像。それはマオリ
のタイヌイ族の血を引くPrincess Te Pueaの像でした。Te Pueaはマオリの福祉に
貢献したことでよく知られています。テプエアマラエの名前はこのプリンセスから
来ています。

学校に隣接したテプエアマラエは、ワイカトを中心とするタイヌイの最北端にある
マラエです。

面接に行ったところはMaori Trustの経営する Training Schoolでした。
花のコースの他に、Maori Arts & Crafts(マオリ工芸), Sawing(縫い物)
Store &Manufacture (倉庫)Catering(もてなし学)がありました。
各コース、生徒は7人という小さなクラスで、おまけに授業料はただという
恵まれたところでした。ここで初めて、私はフルタイムで半年のコースを教える
ことを知るのです。

それはちょっと変わったインタビューでした。インタビューに呼ばれたのは私だけ。
校長のマオリ女性(ボス)は、私のCVをちらった見ただけで、早速どんなアレン
ジを見たいから作ってみてというのです。それがボスと私の運命的な出会いで、
その後8年にわたってボスと仕事をすることになったのです。
早速、スタッフと車で卸屋に花を買いに行き、30分ほどで花を活け上げました。
ここは無難にと思い、ピンク、紫の花を使いました。いったいどういうスタイル、
デザインを求めているのか判らないし、まさか面接のフラワーアレンジメントする
とは思ってもみなかったので、でたとこ勝負ってかんじでした。

結果は2,3日中に知らせると言われ、私は帰途につきました。まるでタイム
トリップしたような、狐につままれたような日でした。

専業主婦の日常に戻って二日後、採用するという電話がかかってきました。
来週の月曜からきてほしいというのです。お給料の安さには、驚くよりあきれて
しまいましたが、とりあえずフルタイムジョブだし、土日休み、夏休みもあると
いうことで、しばらくやってみようと思ったのです。これまで日本で休みは火曜
だけで、子育てしながら働いていましたし、土日を家族で過ごせるというのは
魅力でした。
あとで聞くと、ボスは私のアレンジがたいへん気に入り、早速レセプションに
飾ったそうです。私とボスが同い年で、誕生日は2日違いなのも、採用した
理由と後で知りました。
太って貫禄のあるマオリ人のボスは50歳くらいかなと思ったのですが、
実は当時30台でした。ボスはテプエアマラエの直系の子孫で、タイヌイ族の若い
リーダーの一人でした。

ここでの仕事で、私はマオリ社会がかかえる深刻な問題に直面する事になるのです。
なんいっても、生徒達のすべてにわたってのネガテイブな態度、無気力。私は、
毎朝5時に起き、教材を準備し、毎日不安いっぱいで、教壇に立つと頭は真っ白に
なり、言葉がでてきませんでした。英語での日常会話さえおぼつかないのに、
英語を母国語とする生徒たちに教えるのに足がふるえました。生徒は17歳から二十
歳までぐらいのマオリの女の子達でした。前のマオリの先生になついていたので、
私を見る目は冷ややかでした。前の先生が家庭の事情で急にやめてしまい、
見捨てられてと感じていたようです。

ボスは、授業は英語でうまく説明できなければ、デモンストレーションで補えば
いいと寛大でした。
私もワークブックを工夫したり、花のアレンジメントの実習を多くとりいれて、
楽しく学習できるよう工夫を凝らしました。
すぐにstaff trainingとして、教師資格やコミニケーションのコースをポリテク
で受けさせてくれたのは、後々役にたちました。

でもなにか問題があると、教室までとんできてサポートしてくれたボス。親切な
同僚、家族のような暖かさで接してくれたマラエのおばちゃん達。私を彼らは
パケハ(マオリ語で外国人を意味する、主に白人をさす)としてではなく、同じ
ワカ(マオリのカヌー、マオリ族は祖先がカヌーでハワイキからやってきたと
されるので、同族を意味する)に乗り合わせた人間として扱ってくれました。
それで私の名前の一部をとって、モコ(刺青あるいは孫の意味)のニックネーム
で呼んでました。マオリの人たちは、日本の田舎のおばちゃん、おじちゃんのよ
うで、接し方が私にはとても懐かしく、異国に住む私に安堵感を与えてくれまし
た。

マオリ社会の問題。それは教育、健康部門では深刻です。
高校を卒業するのは、一割にも見たず、ほとんど高1になるまでにドロップアウト
していきます。10台での妊娠、出産、ドラッグ、アルコール、犯罪、親の教育
に対する無関心等、問題は複雑です。

ドロップアウトした子供達は、資格も技術もないまま、失業者になっていきます。
当時、そうした人たちをトレーニングし、就職の機会を与えるためにこの学校の
ような職業訓練校多くがつくられました。1993年から2000年の間に、
約2500のプログラム、50の訓練校が設立されました。学校はプライベートな
機関で運営されてますが、資金は政府機関のひとつ、Skill New Zealandからま
かなわれてます。失業率の高いマオリ、パシフィックアイランダーのプロバイダー
や教会グループが学校作りました。
従って、学校はSkill New Zealandの方針に従って、教育運営されているのです。
私がいた頃は、その前身であるETSA(Education & Training Support Agency)の元
にありました。
Skill New Zealand は、現在はTEC(Tertiary Education Commission)の配下にあり
ます。
TECは失業者の職業訓練だげでなく、School leavers(資格、学歴もなく学校を終え
た若者達)や移民の英語教育などのコースも取り扱ってます。
WINZ(work & Income New Zealand、職業紹介とベネフィットを取り扱う)に26
週以上に登録すると、審査を元に職業訓練のコースが受けられます。

ニュージーランド市民、永住者で無職であれば、WINZにJob seekerとして登録でき
、就職の斡旋、職業訓練などのサービスを受けることができます。
コース費用で無料で、交通費の支給も受けられます。ただというのはすばらしいけ
れど、自腹をきってないので真剣味がない生徒もいることは確かでした。コース
内容は、地域住民のニーズ、企業への雇用の必要性によってデザインされています。

Skill New Zealandの条件にあえば、誰でもこれたのコースを受けることができる
ので、マオリ人だけでなく難民、アジアからの移民の人います。ある時、スリラ
ンカの女医さんが、ニュージー
ランドでは無資格とみなされ、職を見つける事ができず、私の教えるのコースに
来ていました。彼女はこれまでのキャリアを生かす事ができず、しかし、ニュー
ジーランドに住みたいというジレンマに苦しんでました。
こういった問題は最近のニュージーランドの移民政策に関して議論の的になって
ます。移民の問題はまた別の機会に書きますが、いったんニュージーランド人と
して受け入れれた後は、政府は平等に、手に職を就けさせて、就職させ失業者を
減らす事に努力しています。

現在、テプエアマラエには 職業訓練校のほか、コハンガリョウ(マオリ語教育を
する保育園)、クリニック、ソーシャルワーカー事務所が併設され地域住民の福祉
、教育に貢献しています。


私が、最終的にボスを去った理由。やっぱり私は外部者で、彼らのかかえる深刻な
問題を一緒に受け止められない、解決して行けないと感じたからです。
それとマオリ的な時間の流れのなかで、私はもっとちがう生き方ができるのではな
いかとも思いました。のんびりというか、時間がゆったりしているのです。
私はマオリ人の文化を理解できるけれど、その中で生きていくにはあまりのも異質
でした。彼らからすれば、ちょっとせっかちで、成果を上げようと急ぎすぎたかも
しれません。
それでも後から雇われたCatering Tutorの白人の男性は、決してマラエの行事に
参加しようとしないし、仕事以外のことではかかわりたくないという態度でした。
確かに、アジア人の私は、マオリ人からは感情の表現の仕方、人と接し方などパケ
ハより親しみやすかったのかもしれません。

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