つぶつぶタンタンに太陽のことを綴るのを楽しみにしています。覚えていることを綴っておきたい。あたしの物語という言葉に甘え、勝手なこと書きます。
どうぞこの場を使わせてください。どうもありがとうございます。
愛猫太陽が亡くなってから丸々1週間になった。亡くなった1時50分の15分くらい前から、祈りました。
祈った。祈れてしあわせ。エネルギーも送りました。祈らせてくれてありがとう。
淋しいな。
夕方、ようやく火葬場に電話しました。ようやくです。ずっと手元に遺体を置いておきたいとはおもっていないけど、でも電話できなったな。
太陽とかかわってくれたすべての人に感謝します。太陽と一緒に暮らしてくれた猫にも感謝します。あなたたちのおかげで太陽は生きてくることができた。
無性に歩きたくなって気づいたことがありました。太陽と思い出の場所がいっぱい。一緒に散歩した場所という意味ではなく、正確に言うと、あたし一人の思い出です。
太陽を連れてきた後、48時間もしないうちに脱走されてしまい、そのあと2週間近く必死に探しまわったのです。そのとき、市内のあちらこちらを歩きました。ポスティングしたり、チラシを貼らせてもらったり、道行く人に話しかけたり。
あらゆる路地を歩いた。だから久しぶりに歩いて、懐かしいなあと。あのときも必死だったなあ。せつなかったなあ。そして気にかけてくれた一人一人の方のおかげで再会できた。どうもありがとうございました。
おかげで楽しい時間を過ごすことができた。しばらく歩こう。不審人物にならないように気を付けます。
今日は水仙の花を持って祖父母のお墓にもまいりました。ひい祖父母のお墓にもまいりました。あたしが勝手におもっているだけなのですが、おばちゃんが太陽との再会を助けてくれたとおもっています。折り合いが悪かったのに勝手ですね。
だから太陽とのお礼に行った。探しているとき、お墓で祖母に話しかけていて、任せておいていわれて、そのあとに、泣きながら道を歩いていたら、捜索チラシを持って後ろから自転車でやってきた人に「この猫みた」と言われたからです。
そこから希望をもって捜索することができました。
亡くなった直後は、数日スパン、数週間スパンと短いスパンでしか考えられなかったのが、太陽とのことを長期のスパンでも考えるようになっていて、それが思い出になっているということなのでしょうね。仕方がないことですね。
短いけれどかけがえのない6年近くだった。そして、あなたは、いまいちかもとおもっていたあたしの6年を、人生最良の6年に一瞬で変えた。太陽と一緒にいられたなんて、こんなしあわせなことはないからね。
あまり認めたくないのですが、太陽が亡くなる前と亡くなった後では、自分を愛する気持ちが今のほうがあります。
亡くなったあと、しばらくして、太陽が選んでくれた、好きになってくれた人なのだから、自分を愚弄するのは違う。愚弄されるような存在ではない、と考えました。
それで気づいたのです。ああ、あたし自分のことずいぶん愚弄しているんだなあと。いつからなのだろう。ずっとといえばずっとなのかもしれないけど、とにかく、今、愚弄しているなあと。
それからちょっとあと、そもそも、なんで愚弄しているの? 愚弄する必要性はまったくないし、太陽に好かれていなかったとしてもそれは同じだよねと。
自分で自分を愛する気持ちが大切だというのは、よく人に言っているし、本でも読むし、言われてきたこと。そして自分でできていたつもりだったけど、ぜんぜんだったなあと。
そのぜんぜんなのは、最近できていなかったのか、あるいはレベルの問題で、かつてよりは自己愛はあっても、まだまだということに気づいたのか。両方だろうなあ。
とにかく、自分で自分のことを愚弄するのはやめよう。大好きだよ、愛するよ、とおもったのだ。
そして気づいた。もし太陽が亡くなるのが1年後だったら、あたしは1年後まで今ほど自分を愛せなかっただろうなあと。
太陽があたしのために死んだとはおもっていないし、おもいたくもないけど、でもなんというかあたしとはぜんぜんレベルが違うなあ。太陽に甘え過ぎていたなあとおもったのでした。
くやしい。
けれども自己を愛するというのはとてもしあわせなことで、だからあたしは太陽がいなくなったことが悲しく、今後どうやって生きても淋しいなとおもっているのだけど、
同時に以前より自分のことを好きだとおもっている。
太陽ありがとう。大好きだよ。
◆臼村さおり twitter @saori_u
思考していることを投稿しています。
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