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飛鳥寺 ~ 明日香村を訪ねて Vol.5 ~

2013年09月02日 | 明日香村を訪ねて

飛鳥寺

 

 飛鳥寺は588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより,蘇我馬子が寺院建立を発願し,596年に創建された日本最初の本格的な寺院。法興寺・元興寺ともよばれました。現在は安居院(あんごいん)と呼ばれています。

 

 創建時の飛鳥寺は,塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍配置でした。 寺域は東西約200m,南北約300mあり、百済から多くの技術者がよばれ,瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わりました。瓦を製作した集団は,この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていき、さらに,これらの技術を身につけた人たちやその弟子たちが全国に広がり,各地の寺院造営に関わるようになったといわれています。

 

 今でも、ソウルのある寺院と姉妹関係にあり、2・3年に一度、僧侶が飛鳥寺に来て、ハングル文字で写経をおこなっているとのことです。

 

 飛鳥寺は平城京遷都とともに移転し,元興寺と名を変えましたが、そのとき飛鳥寺に使われていた建築材も運ばれ再利用されたそうです。瓦もそのまま使われ,現在に至っています。しかし,大仏は本元興寺と名を変えた飛鳥寺に残り、その後、現在の安居院が1828年に建てられ,この大仏が安置されています。

 

飛鳥大仏

(釈迦如来像)

 年代のわかる現存の仏像では日本最古のものと言われています。

 金銅仏の釈迦如来像(飛鳥大仏)は推古天皇が止利仏師(とりぶっし-鞍作鳥・鞍作止利 くらつくりのとりともよばれるように,もともとは馬具製作に携わっていた百済からの渡来系氏族の一人)に造らせた丈六(約4.85m)仏です。

 605年に造り始め,606年に完成。しかし,887年と1196年の落雷のため火災に遭い本堂が焼失したが江戸時代に再建されました。飛鳥大仏も補修されたましが,顔の一部,左耳,右手の中央の指3本だけが当時のまま残っています。

 

 

入鹿の首塚

 

 

一般的には、蘇我馬子(そがのうまこ)の孫である入鹿(いるか)は、権勢を欲しいままにし、横暴な振る舞いが多かったとされます。
 大化元年(645)、打倒蘇我本宗家を目指して、中臣鎌足(なかとみのかまたり=後の藤原鎌足)と中大兄皇子(なかのおおえのみこ=後の天智天皇)の二人が中心となり、飛鳥板蓋宮の大極殿で入鹿の首を討ち取ります。(巳乙の変=いっしのへん) 


 そして、その切り落とされた首が、おおよそ600メートル北にある五輪塔の地まで飛んできました。その首を供養するために、あるいは超人的な入鹿の念を封じるために建てられたとされるのが、入鹿の首塚の命名由来と言われています。


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