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Más vale prevenir que lamentar.

「希望の牧場」 吉沢正巳さんの想い

2016年03月03日 | 福島を訪ねて

牛の模型を載せた街宣車で全国をまわり、脱原発を訴える吉沢さん=6月、名古屋市で(中日新聞より)

 

希望の牧場

 2016年1月17日に私がある会報に寄稿した文章です。

いま発売中のものに載せていただいているので、さわりの部分だけですが紹介いたします。

 

 2015年6月11日、福島第一原発事故から4年3ヶ月。福島市から車で浜通りへと向かいました。2011年6月に市内の128世帯が「特定避難勧奨地点」に指定され、わずかな放射線量の違いが地域を分断した「伊達市」。「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」の3つの地域に分断され、住む人がいなくなった村内を除染作業の車両が行き交う「飯舘村」。放射能汚染が人びとや土地に及ぼす惨状を目に焼き付けながら県道12号線を東へ。八木沢峠を超え南相馬市に入りました。

 

 一転して一般車両や人々が行き交う南相馬市の中心部、原町区。ここからは陸前浜街道と呼ばれる県道を南下。福島第一原発に近づくほど汚染がひどくなっていきます。「避難指示解除準備区域」に入ると道の両側の至る所で住宅除染がおこなわれ、耕作されない田畑が延々と広がっていました。この奇妙な風景も原発事故が生み出してしまったものなのです。暗澹たる想いの中、小高区中心部で右折。開通した常磐自動車道をくぐり、県道34号・相馬浪江線をさらに南下すると、森の中に黄色いバリケードが見えてきました。ここから先は「居住制限区域」。南相馬市小高区と浪江町の境界にあたる小さな峠にはバリケードが設置されていました。

 

 この小さな峠の左手の小高い丘に草原が広がっています。「希望の牧場」です。牧場の入り口からゆるい坂道を上って行くと、「3.12 浪江町 無念」と書かれた大きな貯水タンクと赤いプレハブ小屋が見えてきます。草原では何十頭もの牛たちが、ときおり鳴き声をあげながらもくもくと草を食んでいました。

 

アポイントなしの訪問でしたので、どうしたものかと少々思案しましたが、思い切ってプレハブのドアのところに書いてある吉沢さんの携帯に電話することにしました。「しばらくしたら行けるから、ちょっと待ってて欲しい」と吉沢さん。この日、浜通りは真夏を思わせる天気で日差しが強く、白い雲がぽかりと浮かぶ晴れ渡った空のもと、元気そうな牛たちを眺めながら待つことにしました。ここは第一原発から北西へわずか14キロ。牧場の南端からは放射性物質の排気塔が望める位置にあります。吉沢さんが代表を務める「希望の牧場」は、旧警戒区域内に取り残された被ばく牛、約300頭を飼育しているのです。

 

 2011年、放射能汚染により立ち入り禁止となった地域では、たくさんの動物たちが餓死、生き残っていた家畜たちには殺処分指示がだされるという悲惨な出来事が起こってしまいました。吉沢さんは国・農水省の殺処分指示に抵抗し、被ばくした牛を飼い続けています。牛たちは一個約300キロもある牧草ロールを一日に8~10個も食べます。一日の牧草代だけでも3万円!これだけでも年間1000万円以上もかかってしまいます。ここの牛たちは肉牛として出荷されることはないのです。これだけのお金をかけてでも牛を飼い続ける理由はなんなのでしょうか?

 

続きは3月6日のイベントで販売される 原発おことわり三重の会の会報「はまなつめ」でご覧くださ~い。
(200円です^^)

 





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