2011年、3月11日、あれから5年。長い避難生活が今も続いています。当時小学1年生だった長女は、今年の4月で中学1年生になります。原発事故によって避難して5年がたちますが、福島の私の家は5年前に暮らしていたそのままの状態です。子供が遊んでいたおもちゃも、机の上の書きかけの手紙も、干した洗濯物も、たたみかけの布おむつも、あの日のままです。そして放射能が降り注いだまま、家は人が住める状態ではなくなり、カビが生え、朽ちて、荒れ果てています。放射能が家の中にも入っていますので、家の中のすべての物は持ち出すことはできません。だからといって処分するにも、行政からの支持はなにもないのです。自分たちでどうにかするしかないのが現実なのです。
小学校の入学式に私の母がかってくれたピンク色のスーツは娘のお気に入りでした。娘が、ふと福島のことを思い出し「2階のお着替えのところにかけてあった、ばあばに買ってもらったあのピンクの服はまだ着られるかな?」と話してきました。「そうだね。あの服とても気に入っていたよね。入学式の時にまだ1回しか着ていなかったね。でもあれからずいぶん大きくなっているから、きっともう着られなと思うよ~」私がそう話すと「あっそうか~。」娘にとって、あの日から、福島の思い出は小学校1年生の頃のまま、思い出も止まっているのだと思いました。
子供たちも、3.11から突然、慣れない土地での暮らしをしなくてはいけなくなりました。大地震の揺れを長い時間経験し、恐怖の中、原発が爆発するかもしれないと子供たちを車にのせ、あわてて家に帰り、すぐに荷物をまとめて真夜中に家をでました。その間、子供たちは疲れはてていて車の中で眠ったままでした。避難途中の車の中、次の日の朝に子供たちが目を覚ましました。「ここはどこ?」と言いました。何がおきたのかもわからないまま、転々とする放射能から逃げる不安な日々。「私たちは、どうなるの?家に帰りたい。死んじゃうの?」ここにも放射能がふってくるかもしれないという恐怖。不安がり、泣く子供たちを抱きしめて、私も泣きたい気持ちをおさえ、子供が不安にならないようにと平静さをよそおっていました。慣れ親しんだ、毎日楽しく通っていた小学校に突然通えなくなり、昨日まで仲良く遊んでいたお友達にも会うことができず、離れ離れになり、情緒不安定な状態が長く続きました。その時期は、大変な思いをさせてしまったのだろうと思っています。「放射能」といわれ、背中を蹴られたことも避難先の小学校でありました。「学校に行きたくない、学校をやめたい」という日が続きました。そのため、担任の先生に話に行き、子供たちに合うような小規模校がないかと他の小学校にも訪ねてみました。そして、娘は転校をし、3つ目の小学校に行きました。今では見た目は元気にみえますが、こどもたちも、心の奥に深い悲しみを残したまま、今を生きているのだと感じています。私は、夜一人になると、ふと福島のことを思い出します。思い出すたびに涙があふれます。5年たった今も、話をきいてもらえる場はほとんどありません。5年という月日の中で、少しずつ、少しずつ、今の自分と向き合い、今できることをして生きてきました。でも、心の奥の悲しみは癒えることはありませんでした。
「今の福島の家は、田畑も荒れ果てて、泥棒にも入られているみたいだよ」と村を訪ねた知人から聞きました。留守中に家の中に入り、物を盗み、ネットや、リサイクル店などで、販売しお金を得ている人がいると聞きます。放射能汚染されている家の中や外のものは、放置されたままです。盗んだものをそんな風に、もしも販売してしまっている人たちがいるとしたら、とても怖いです。計画避難区域であるにもかかわらず、誰でも自由に出入りできてしまうことそのものがおかしいなと思っています。
村では、みんな家族のように温かな心で助けあって暮らしていました。震災は、その人々の心豊かな暮らしと絆をバラバラにしてしまいました。長い避難生活が続き、3.11前までのような、元の暮らしには戻ってはいないのです。村でお世話になった、あんなに元気だった村のおじちゃん、あんなに親切にいろいろ教えてくれたおばちゃんが、原発事故のあと、しばらくして突然亡くなられたと聞きました。お礼もいえずに、どこに住んでいるのかもわからないまま、2度と会えなくなってしまいました。原発事故の影響なのだろうかと考えてしまいます。会いたい人はたくさんいるし、どうにか探して会いに行こうかと考えたこともあったけれど、小さい子供がいる私にとって、何かあって、私が倒れるわけにはいかない、寂しい思いだけは子供にさせたくないという気持ち、そしてまた、もしも赤ちゃんがまた産まれてくるかもしれないと思うと、放射能汚染が高い福島の家には、どうしても足が向かない・・。
福島の私の家は、今も高い放射性物質が敷地内に降り注いだままです。家のまわりだけは除染してもらいましたが、除染されてすぐは、半分~3分の2くらいまで数値がさがっているところもあるのですが、そのほとんどはしばらくすると数値があがります。家の裏が森に囲まれていて、その森から放射能汚染された森の土が雨によって流れ出るからか、結局のところ、3分の1程度までくらいしか、あまり数値はさがっていないのです。家の周りのはぎ取られた土は、黒い袋に入れられて、家の横に置かれたままになって雨ざらしの状態です。雨が降れば、その除染された袋の中の土にも水はもちろん染み込み、袋の外に流れ出ることでしょう。家の敷地の多くは森に囲まれています。そして、森はほとんどが除染対象外になっています。
森で自然に生えてくるキノコが福島にはたくさんあります。平成28年1月にキノコの放射性セシウムの基準値 「一般食品 100Bq/Kg」の測定が行われた結果です。
測定品目…イノハナ・検出最大値 … 214,000Bq/㎏
測定品目…クリタケ・検出最大値 …53,900Bq/㎏
この数値が今現在、私の住んでいた村で、5年たった今でているのです。でも村は一部地域を除き17年3月までの避難指示解除を目指しています。キノコは山にいけば誰でもとることができます。もしも、子供があやまって森に入り、そのキノコを採って口にしてしまったらどうするのでしょうか?「村で採取した山菜、きのこは食べないでください」と村の広報には注意書きが書かれています。危険なものがたくさん周りには残っているにもかかわらず、あと1年以内に避難解除され、その場所に子供たちを戻して普通に生活できるとはとても思えないのです。
村は原発事故がおきてからも避難指示が遅れ、避難までの2、3ヵ月間は村に残った方が多くいました。避難までに及ぶ放射能被曝の不安、とりわけ幼い子どもたちへの影響に若い親たちは怯え苦しみ続けています。一方、政府は村民の帰村と村の復興をめざして、2011年末から「除染」効果の実験事業を開始したのです。しかしその効果は「子どもたちが安心して暮らせる」レベルにはほど遠く、村人の中から、数千億円にも及ぶ莫大な費用のかける除染で、ほんとうに帰村できるのかという疑問や不安、不信の声が噴出しています。「帰りたい。しかし帰れないのでは? ではどうする?」──長期の避難生活の中で、飯舘村の村人たちの葛藤と苦悩は続いています。
幼い子どもを持つ母親たちは、線量の高い村に2ヵ月近く残り、子どもらを被曝させてしまったことを悔やみ、自分を責め続けています。将来、「飯舘村出身」の経歴が、結婚差別になってしまうのではないか、娘たちが生む子どもに被曝による影響が出るのではと恐れる母親たちは、その不安を切々と訴えています。そして今5年をむかえて私たちは先のみえない未来を決断しなければいけなくなりました。ふるさとの飯舘村には戻りたくても戻らない選択をするのか、汚染されているところに覚悟を決めて戻るのか。
飯舘村で大変お世話になった長谷川健一さんのお話しでは、「マイホームの後ろの森、山林について、そこは除染が終わったとされています。その除染が終わったとされている場所についての土壌サンプリングをいたしました。その結果、キログラム当たり、なんと2万6000ベクレルという数字が出ました。それを1メーターの平米換算をしますと、実に130万ベクレルです。いま、日本のこの国では一応、放射性廃棄物の基準としてキログラム当たり8000ベクレルというラインをだしてます。つまり、8000ベクレルを超える汚染物質については国が厳重な管理をすると、そういうことを言っているわけです。それが実に除染が終わったとされるところで、2万6000ベクレルということは、国の基準値の3倍以上の汚染になっているわけです。そういう高濃度のとこの汚染のとこにいま国では、2017年の3月までに避難を解除しようとしているわけです。しかも、私たちの村当局では2017年の4月から、学校まであの高濃度の汚染地域で再開をさせようとしているわけです。こういうとんでもない事態、いかに国ではそれを早く幕を引こう、終わったことにしようということが、もう目に見えているわけです。これからもわれわれはそういう避難解除とか学校再開とか、そういうことに向けても、これから発信を続けていかなければならないと、そういうふうに思っております。」とありました。
皆さまのあたたかいご支援のおかげで、福島保養キャンプを避難先の三重県で毎年夏に開催させていただいています。ママや子供たち、保養をもとめている人がいる限り私は、受け入れる場を作りたいと思っています。ときどき避難者である私がなぜ、このキャンプをしなければいけないのだろう。資金を集めるのに、家族を犠牲にして、頭を下げて募金してもらうことっていったいなんなのだろうと思うことがありました。保養というものは、本来ならば行政がやるべきことなのだと思うのです。保養キャンプを維持していくことは、とても大変なことです。資金、ボランティア、食材集めなどをはじめ、たくさんの時間と労力を費やします。私の知り合いもたくさん福島から西日本に避難しています。そして避難した友人たちもまた、保養キャンプや避難者の支援をしているのです。
皆さん、一緒に、避難者や保養の支援などの活動をサポートしていただけませんか?こころを寄り添うそうお気持ちがなによりありがたいのです。保養キャンプをしてみて感じることは、多くの方が保養キャンプの場を必要としているということです。参加者の方は、普段、放射能のこと、子供のこと、家族のこと、食事のこと、病気のことなどさまざまな悩みをたくさんかかえておられます。そのような話は、気軽に話せる人がまわりにはいないのだそうです。保養に参加されたママどうしで話ができることも、心のリフレッシュになります。普段外で自由に遊べない子供たちが、田畑や森や川で、土と水を肌で感じ、とびっきりの笑顔でたくさん遊んでいきます。そんな子供たちの笑顔をたくさんみられる場をととのえてあげたいのです。子供が元気になるとママが元気になります。母として子供が笑顔でいられることが何よりの希望です。
どこにいても、私は福島を忘れない。そして、私は私らしく、今を生きてゆこう。飯舘村の思いを胸に。なくなった村のおじちゃん、おばちゃんに教えてもらった、たくさんのことを未来の子供たちに紡いでいきたいと思っています。 2016・3・⒒村上日苗
☆「福島保養キャンプ㏌みえ」では、3.11原発事故の影響により避難されてきたかた、福島保養キャンプ㏌みえ、に参加された方の今の思いをまとめて、冊子にしています。昨年保養キャンプに参加された皆様からの手記がプラスされて、新しいあの日からを作成中です。3月下旬に完成予定。「~あの日から~」1冊、300円です。
「福島保養キャンプ㏌みえ」http://miemisugifukushima.jimdo.com/
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