こどもたちの未来へ  

Más vale prevenir que lamentar.

長崎港

2013年11月24日 | 佐世保・五島・天草・熊本

長崎港

 

長崎港ば守るため、なんと佐賀藩が湾口に砲台ば据えた

 

 2004年にでけた長崎湾口に架かる「女神大橋(ヴィーナスウイング)」ば渡ると、いまは埋め立てて地続きになっとるばってん、むかしは島やった「神ノ島」



 四郎ヶ島いうとはその神ノ島の沖合にある無人島のことで、いま神ノ島とは堤防でつながっとっけん、堤防の上ば歩いて渡ることがでける。



 鎖国時代、長崎港の警備ば命じられとった佐賀藩が堤防ば作り、島の周囲には石垣ば築いて台場(大砲ば据える陣地)にした。神ノ島、伊王島とともに日本で最初に鉄製の大砲ば備えた場所として「知る人は知っとる」貴重な遺跡ばい。

 

長崎ば守る立場で地図ば見たら、伊王島・四郎ヶ島がいかに重要な場所やったかていうことが分かる。

 

 寛永16年(1639)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、嘉永7年(1854)の日米和親条約締結までの期間ば一般的に「鎖国」て呼ぶ。江戸幕府は、日本人の渡航ば禁じ、貿易もオランダ・中国の2ケ国に限って、幕府の管理下でしかしたらいかんやった。

 外目云うとは港外のこったい。


 ばってん、幕府は、台所がきつかったもんやけん「金は出しきらん」いうて佐賀藩の提案ば否決した。そこで佐賀藩は、自領(飛び地)の神ノ島と四郎ヶ島の間(約230m)ば埋め立てて、大砲台場の増設工事ば始めた。



 埋め立て工事は、嘉永4 年(1851)4月に着工、翌年に完了した。アメリカのペリーが来る1年前のことやった。


 そいで、佐賀藩は、自力で開発した大砲ば神ノ島・四郎ヶ島の台場に設置した。当時、日本には佐賀藩のほかには、反射炉ば使う大砲製造の技術はなかった。



長崎に押し寄せてきて開国ば迫ったロシアのプチャーチン艦隊に対して、幕府の川路勘定奉行が、強硬な姿勢で開国を拒否したとも、佐賀藩が独力で築造したばかりの伊王島、神ノ島・四郎ヶ島に、強力な大砲台場があったけんやった。

 

 一方、1853年に来航したアメリカのペリー艦隊に江戸幕府は、慌てまわって開国の要求ば呑んだ。それはなしかいうと、江戸湾に長崎のごたる強力な大砲台場がなかったけんたい。



 幕府は、江戸の失態ば反省して、佐賀藩に50門の大砲ば注文し、その大砲が、品川の台場に運ばれたていう。当時の佐賀藩が、いかに鉄鋼製品で最先端の技術ば持っとったかていうことが分かる。



 1854年、2回目に来たペリー艦隊は品川沖まで来たとやけど、この砲台のおかげで江戸に上陸しきらんで、横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになる。



 品川の台場は、石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、合計8つの台場が建設された。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場の建設ば急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲ば据えたとばってん、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国してしもた。

 長崎の台場に話ば戻す。自前で台場ば築造することにした佐賀藩は、その道の権威者やった幕府の江川太郎左衛門の意見ば聞き、幕府が持っとったサハルト八菱城の原本ば借り受け、佐久間像山あたりにも相談して設計図ば作りあげた。サハルトていうとは、フランス人で築城の名人たい。北海道の五稜郭もこれば参考にして作られとると。



 神ノ島と四ヶ郎島ば結ぶ工事は予想外の難工事で、見積もってみたら、延べ人夫21万6千人、石工18万5千人ば使い、その費用は約6万3千両もかかることが分かった。



 佐賀藩は、幕府に借金ば頼んだばってん、さきに書いたごと手元不如意の幕府はうんて云わん。そこで佐賀藩は、独力で実施することを決心したわけたい。



 まず、90艘の漁船に石材ば満載して、海中に投げ入れたばってん、波が強うて石は押し流され、投げ入れても、投げ入れても、海が埋まらんやった。



 それば知った長崎んもんの間では

「どんどん転びの堰所の石よ、どこで止まるか先き知れぬ」

ていう歌が流行し、「金ば海に捨てるとと一緒たい」いうて佐賀藩ば皮肉った。

 

 そこで考えた佐賀藩は、2間に1間半に高さ1丈の枠ば作り、これに石ば入れてて、海中に沈めたところ、今度は潮に流されず海の底に落ち着いた。

 



 この方法で1852年2月から、神ノ島と四郎ヶ島の両方から145隻の舟で一気埋め立て、127間(約230m)が月末の29日には徒歩で往来ができるようにつながったていう。

 



 

島に石ば運んで石垣築いて、四郎ヶ島の大砲台場の増設、築造が完成したとが、嘉永5年(1851)ていう訳ったい。



 そして同年7月には佐賀城下で築地反射炉が完成し、ここで製造された大砲が四郎ヶ島などの新砲台に装備されていった。


 1854年、幕府の川路勘定奉行は、佐賀藩の案内で、神ノ島、四郎ヶ島などの砲台ば見て回り、実弾射撃も見学した。(勘定奉行いうとは幕府の財政と直轄領の最高責任者のこと)。


 川路はこのことば「長崎日記」に次のように書いとる。「1月15日晴、長崎の台場ば巡視。松平肥前守(鍋島直正 )の新台場まことに宜しき出来で・・・云々」



 この砲台のお陰で長崎は、外敵の侵攻ば受けることなく、原爆落とされるまで平和に暮らせたとやけん、佐賀藩ば皮肉るどころやなか。四郎ヶ島砲台に感謝しとかないかんとたい。



 ところが現在はほったらかし。石垣はくずれ砲台跡は荒れ果てたまま捨て去られとる。釣りに来とる地元長崎のもんに聞いても、そげなこたぁなぁーも知らん。


 市の観光課に文句言いにいったら、若っか係長が担当で「いま測量調査中で、これから整備して観光に活かそうて思いよります」


「分かっとりゃよか。頑張んしゃい。早うせなつまらんばい」て云うてきた。


 佐賀県の学者やら有志の人達も「佐賀の先祖が造った遺産やけん、なんとかせんば」いうことで最近調査活動ば始めとんなる。

写真は一括して荒れ果ててくずれ、木に喰われとる砲台の跡。

四郎ヶ島砲台跡の石垣。奥が神ノ島。

 

長崎ぶらぶら節には、こんな歌詞があってずっと歌い継がれとる。



 沖の台場は伊王島 四郎ヶ島 入り来る異船は すっぽんすっぽん
                       大筒小筒を鳴らしたもんだいちゅう



 嘉永七年 きのえの寅の年 四郎ヶ島見物がてらにオロシャがぶうらぶら
                      ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう

 

 四郎ヶ島から見た長崎港の出入り口。右手に香焼のドック。バックに野母半島の山々。

「ふるさと待合室」より、「博多弁」での紹介でした。

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿