奈良尾港
米山展望台から奈良尾に下り、朝から車で案内してくれた「かずおばんの家」の智子さんと別れ、8月12日14:00 奈良尾港よりフェリーに乗船しました。 福江港を経由し、長崎港へは18:45到着予定。ゆったりとした船旅で五島の島々を見るために、75分で着く高速船ではなく、フェリーを選びました。
奈良尾の歴史
奈良尾町の歴史としては、定かなものは無いそうで、西暦1596年頃に紀州広浦(和歌山県広川町)の漁師達が、飽和状態となりつつあった瀬戸内を離れ、この地にカツオ釣りに来たことが由来であるという説が有力なんだそうです。
大正・昭和初期はイワシ漁でにぎわい、漁業の町として発展を遂げ、明治4年に役所が岩瀬浦から奈良尾へ移り、昭和18年に町制を施行し、昭和20年代に人口のピークを迎えています。
そして、その後は黄海・東海などの新漁場を開拓、漁耮機器の近代化を図り、昭和57年においては、年間303億円の最高水揚げを記録しています。西日本屈指と言われた大中型まき網船団(11社24ヶ統)の基地としても全国にその名を轟かせました。
近年では、漁業に対して逆境の風が吹く中、県下初のトライアスロン大会の開催や海外・全国各地との交流など、観光という第二の産業を主に力を入れている町へと変化しようとしています。
(参考:奈良尾ターミナル モニュメント紹介文より 一部抜粋)奈良尾港
大型まき網船並ぶ月夜間
「月夜間とロマンの里」を掲げる五島奈良尾町。月夜間とは月の光が冴(さ)える旧暦13日から19日までをいい、月光で集魚効果が薄れるため東シナ海に出ていた船団が港に帰ってくる。大型のまき網漁船が並ぶ港は壮観で、つかの間の休漁期間に町は活気づく。
西日本屈指の遠洋まき網漁業の基地、奈良尾町。現在、奈良尾港を中心に十五船団が操業している。資源の減少、魚価の低迷、後継者不足などで減船、撤退が続く全国のまき網漁業基地の例に漏れず、昭和50年代の二十五船団から急減、昨年には三船団が相次いで撤退するなど厳しい状況にある。
それでも昨年の水揚げ高は11万2000トン、175億円と徹底した合理化、省力化でここ数年横ばいを維持。町の基幹産業であることに変わりはない。奈良尾港は漁船の大型化で手狭となった本港に隣接して昭和47年に新港が建設され、まき網船団も移転。新港には長崎航路のフェリーのほか、平成2年からジェットフォイルが就航。合わせて年間23万人余りの乗降客があり、長崎~上五島間の海の玄関口でもある。
とりわけ港がにぎわうのは、まき網船団の出入港時。最盛期の活気を知る人は「寂しくなった」と嘆くが、それでも物資の積み込みや網揚げ、見送り、出迎えの家族の声と港は息を吹き返す。
船団が出港し、がらんと静まり返った港は、月夜間のけん騒と裏腹に、厳しいまき網漁業の将来への不安をかきたてるものの、改めて存続と再興への願いを町民に抱かせる。
ふるさと探訪 長崎新聞より
奈良尾神社・アコウの巨樹
アコウは南紀、四国、九州、南西諸島に分布し、ガジュマルと並んで、この地域を代表する巨木種である。長崎県のアコウの巨木の内3位までが五島列島にあり、その中で最大のものが奈良尾神社のアコウである。樹高25m、幹回り12.0m、樹齢は650年とされ、昭和36年に国指定の天然記念物となっている。第2位は福江市樫の浦町のもので、幹周11.2mである。玉之浦町には幹周18.3mの大アコウがあるが、5本の株立ちである。因みに、日本のアコウの中で、奈良尾神社のアコウは第1位の幹周を誇る。また、長崎県の全樹種の巨樹の中では第4位の位置を占める。
五島列島は、北から中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島の五つの大きな島を中心に、約140の島々からなっており、西海国立公園に指定されている。中通島へは五島産業汽船のフェリーが長崎港と奈良尾港を日に3-5便で結んでいる(夏場が5便多い)。奈良尾港から南西に真っ直ぐ進むと、トンネルをくぐって300mほどで奈良尾郵便局のある三叉路に出る。これを左折し、奈良尾支所(役場)の手前を右折すると直ぐに奈良尾神社がある。奈良尾図書館を目指して行っても良い。
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