冨岡港
富岡砂州
天草に行く機会があれば、ぜひ見てみたい風景があった。 熊本県苓北町にある富岡の砂嘴である。巴崎とも、曲崎ともいう。 そもそも富岡半島は、島と本土が繋がって生まれた半島である。砂が運ばれて生まれたわけだが、町並みはその砂地に出来ている。砂嘴は、その半島から付属物のように延びて、稲妻のように段をなしている。砂嘴は流体力学の生む地形のひとつだ。 海の流れには、大規模な流れとしての海流、潮の満ち干によって生まれる潮流、そして沿岸流がある。 沿岸流は、地形などの影響を受けて、波が斜めに海岸に打ち寄せるたときに生まれる、ひとつのベクトル、海岸に沿った流れのことである。これが砂を運ぶ。わずかずつ運び、わずかずつ積み立てていく。延ばしてはさらに沿岸流に影響を与え、カーブを描きながらさらに延び、太っていく。 |
|
||||
雲仙の火山が狭窄部を作った島原湾は、その奥に佐賀、大牟田、熊本、島原、諫早といった都市をもつほどに奥深さがある。その奥深さと湾口の狭さが速い潮流を生むに違いない。 湾口部は早崎瀬戸といい、いかにも強い潮流を予感させている。早崎瀬戸の北には湾口にある港を意味する口之津があり、南の熊本県側は天草の五和町である。その西隣が富岡を含む苓北町となっている。 出入りする潮流は、周辺の地形の影響を受けて様々な乱流を作るのであろう。余波のひとつが島から形成された富岡の、この砂嘴ではなかったか。 いま、天草の本渡には空港さえ生まれたが、外海に面した富岡は、本渡と並ぶ天草の中心地であった。砂嘴が囲む富岡港の奥には、城もあった。また、富岡の根本には富岡切支丹供養碑がある。 |
二の丸から富岡の町並みを望む
富岡城は天草下島の北西、砂州で繋がった陸繋島の富岡半島の南東部の丘陵上にある梯郭式の平山城である。城の南には堀の役割を果たした袋池があり、東部には砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となって海からの外敵を防衛する役割を果たしていた。また、陸からの攻撃は砂州のみしかない。極めて攻撃し難い天然の要害を形成していた。
平成6年(1994年)より城の発掘・復元が計画され、国立国会図書館にある『肥前甘艸富岡城図』をもとに丘陵上の本丸に復元作業が行われた。平成17年(2005年)3月復元作業が終了し石垣や櫓が復元された。本丸の櫓は展示施設「富岡ビジターセンター」となり、天草の歴史・文化・自然などが紹介されている。
沿革
慶長5年(1600年)天草郡を含む肥後北部を領していた小西行長は、関ヶ原の戦いにおいて西軍方に参陣し敗れた。このため所領は没収され、翌年の慶長6年(1601年)東軍に参陣し功績のあった唐津城主・寺沢広高は天草郡4万2千石を与えられた。広高は肥前唐津から離れたこの地を治めるために、慶長7年(1602年)から慶長10年(1605年)にかけて富岡城を築き城代を置いた。
寛永14年(1637年)10月28日(新暦12月14日)、藩による重税とキリシタン迫害に堪りかねていた天草の領民は、数日前に代官を殺害した島原の領民に呼応、共に天草四郎を盟主として蜂起し、島原・天草一揆が始まった。富岡城代の三宅籐兵衛は1,500人の唐津藩兵を率いて、本渡に出向き一揆軍との戦闘が繰り広げられた。しかし数に勝る一揆軍により11月14日(新暦12月30日)に三宅籐兵衛は討ち死にした。11月19日(新暦1638年1月4日)、一揆軍は富岡に迫り城下町と城を攻撃した。戦死した城代に代わり原田伊予が指揮を執り、猛攻によく耐え11月25日(新暦1638年1月10日)には一揆軍を撤退させた。一揆軍は海を渡り原城に立て籠もる島原の一揆軍と合流し、天草での戦闘は終了した。寛永15年(1638年)2月28日(新暦4月12日)、原城に立て籠もった一揆は鎮圧された。しかし、一揆の勃発を許した堅高(唐津藩2代藩主)は天草郡を没収された。なお、堅高は正保4年(1647年)に自害し寺沢氏は無嗣断絶となっている。
この年、天草郡4万2千石は山崎家治に与えられ、備中国成羽城より入城し富岡藩が成立した。家治は入封すると早速、城の改修に着手した。百間塘と呼ばれる土手道を整備し、袋池を構えて内堀の代わりとした。また、大手門を造営した。寛永18年(1641年)城の改修が終了したが、この年に家治は讃岐国丸亀城に転出となった。
寛永18年以後は寛文4年(1664年)まで天領となった。初代代官として鈴木重成が承応2年(1653年)まで務めた。重成は天草郡の石高4万2千石は過分であり半減すべきであると訴え江戸で切腹した。重成の後は子の重祐が継いだが13歳と年少であった為、明暦元年(1655年)甥の重辰が天領代官を継ぎ寛文4年まで務めた。
寛文4年、三河国田原城より戸田忠昌が2万1千石で入城し再び富岡藩が立藩した。忠昌は城の維持管理が領民への負担を強いていることに疑問を感じていた。このため寛文10年(1670年)忠昌は遂に三の丸に藩庁を残し、本丸・二の丸を破却し廃城とした。これは「戸田の破城」と呼ばれ、良策として後世に評価された。廃城となった後は三の丸が陣屋(富岡陣屋)として残った。
破城の翌年の寛文11年(1671年)忠昌は「天草は永久に天領であるべき地」と主張し認められた。忠昌は奏者番兼寺社奉行となった当日に関東へ転封となり、以後、富岡城三の丸は明治維新まで天領代官所(天草代官所)として機能した。
明治元年(1868年)には天草県となり、代官所は県庁となったが間もなく長崎府に編入され、廃藩置県の時の明治4年(1871年)には八代県に編入、さらに白川県、熊本県に編入された。遺構として鈴木家の墓所がある端林寺には代官所正門が移築現存している。
ウィキペディアより
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます