宿ノ浦
若松港ターミナルから今日泊まる民宿に電話をいれ、迎えにきてもらい宿ノ浦へ。今日の宿は「かずおばんの家」http://tanoshi358.com/all_minpaku/index.htm。
宿ノ浦はその昔、船で行き交う商人達が寄泊する宿があったために、このように呼ばれるようになったといわれています。今は、波穏やかな湾内で真珠やハマチの養殖が行なわれており、いにしえの「宿場」の面影を見ることはできません。しかし、この地区の周辺には、交易港としての繁栄を今に伝える地名や事跡が数多く残されています。たとえば、横浜・元倉・蔵小島・宇治前・浜着・鎌ヶ倉・島ヶ倉・浜泊・船着・船隠・上宿・下宿・神ノ浦・神部などの地名がそれです。
港のできる立地条件として、① 船の出入りの容易さ、② 風波が避けられる地形、③ 内陸とのアクセスの良否、④ 深さ、の四つの条件があるといわれています。これらの中で、①と②は、原初的に重要な条件であり、「入江」「浦」「洲」「河」「瀬戸」などがこの両方を満たす地形とされ、中でも「瀬戸」に港が立地している場合が多いといいます。
瀬戸は、潮流を利用すれば「船の出し入れが容易」であり、また、両側に陸が迫っているので「風波」の影響が少ない、ということがその理由です。③の条件は、「島」には当てはまりませんが、島に多くの港ができ、都市が出来ています。島は、四方から物が集まり積み替えられて、また、四方に散って行くというように、物資の積み替え・物流の結節点として機能するから、といいます(『津・泊・宿-中世都市研究3-』新人物往来社、五九~六一頁参照)。
こうしてみていくと、当地の「宿ノ浦」とその周辺地域は、③の条件のほかはすべての条件を満たしており、これらの地域が、中世期に「海上交通」の要衝であり「停泊地」であったことは間違いありません。
東シナ海に突き出た「五島列島」は、アジア・中国大陸に開かれた海上交通の中継点として古くから着目され、重要な役割を果たして来ました。遣唐使船や遣明使船が寄泊した事実は『肥前国風土記』や『策彦周良入明記』によって知ることができます。
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