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桐教会とキリシタン墓地

2013年10月20日 | 佐世保・五島・天草・熊本

桐教会と荒島・桐ノ小島

 

 寛政年間、大村藩外海地区から桐と古里への移住が伝えられます。 桐古里郷のガスパル与作が治療のために長崎に行き、偶然、大浦天主堂に入ってプチジャン神父を訪ね、五島キリシタンのカトリックへの復活を導きました。

 

 ガスパル与助は、明治10年(1877)には自宅を仮の教会とすると共に伝導学校を開設し、五島各地から集まった若者たちの教育にあたりました。

 

 パリ外国宣教会のフューゼ師によって、明治30年(1897)中五島最初の小教区として設立、その後、当小教区の巡回教会であった浜串、土井ノ浦そして真手の浦が小教区として独立しました。

 現在の聖堂は、昭和33年(1958)改築され、8月29日山口大司教によって祝別、献堂されました。 その後、ガスパル与作とその父パウロ善七、ミカエル清川沢次郎を顕彰する「信仰の先駆者顕彰碑」が昭和46年(1971)教会堂入口横に建立されました。 

 

 白壁に赤い屋根の桐教会は、90年余の歴史を刻み、若松の瀬戸を往来する船舶の航海の安全を祈るかのように、丘のうえに佇立していて、教会堂のある高台からは、美しい瀬戸を望むことができます。

 

信仰の先駆者顕彰碑

碑文には、あらゆる迫害にも屈せず、信仰を守り通した信者たちの苦難の道程が次のように記されています。
 「我らの先祖は、過酷な迫害に耐え、信仰の遺産を守り、伝えた。特にガスパル与作は、十七歳で五島人として初めて大浦天主堂へ参り、キリシタン復活の糸口を開いた。その父パウロ善七は、相次いだ凄惨な迫害によく耐え、人々を励まし、よく信仰を全うした。材木責めにあい、拷問のため膝に載せられた石の重みに耐え、毅然として祈るミカエル清川沢次郎は、伝道師として活躍し、約三百人を洗礼に導いた。(略)」

 

キリシタン墓地

弾圧の中で強く生き延びた信者たちの歴史を、その多くが海辺から物語っています。 日本の墓地にある石碑と同じ形状のお墓ですが、石の上にはクルスが添えられています。 いろとりどりの花に囲まれる墓地は、町内の29ヵ所ある教会とともにあります。

 

 

 


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