わたしたちには、小さな家が与えられることになりました。と申しても、それは月の世にあるわたしの夫の家であって、こちら側にいるわたしの家とは申せませんでした。もうよほど月日が経ちましたから、だいぶ悲しいことが減ったのでしょう。わたしは、神にお許しを願い、月に一度、夫の家を訪ねてよいことになりました。
月の世に昼はなく、いつも空に月がかかっておりました。見上げると、月は白く豊かに光り、大きな空の闇を薄藍に染めておりました。その月の光の中を、わたしはいそいそと夫の家に向かいました。夫の家は、古い廃墟の町にある、小さな一軒家でした。わたしは石畳の道を小走りに駆けながら、町でただ一つ明かりの灯っている夫の家の前に立ち、玄関の戸を黙ってあけました。
夫は、昔の面影すらなくやせ衰え、車いすに座っていました。そして彼は、まるでこの世のすべてを拒否するかのように、全身を透明なガラスの塊の中に閉じこめていました。わたしはしばし、戸口に立って、その悲しい姿を見ておりました。
わたしが夫に殺されたのは、もうずいぶんと昔でありました。その頃の夫は広い背をした美しい男性で、とても心優しく、わたしたちは深く互いを愛しておりました。その夫が、ある日突然、耳を裂くような悲鳴をあげたかと思うと突然狂いだし、家じゅうを暴れまわり始めたのです。そして彼は居間に逃げていたわたしを捕まえ、首を折らんばかりにわたしののどをしめました。そうしてわたしは、声を上げる暇さえなく、あっという間に死んでしまったのです。
夫はそのあとすぐに正気に戻り、自分のしたことに初めて気づいて、叫びをあげました。そして狂気のまま家を飛び出し、わたしの後を追うように、川に身を投げたのです。
彼が狂ったのは、彼にとりついた蜘蛛の怪のせいであったことが、後でわかりました。蜘蛛とは昔は人間であった女が、男にむごい殺され方をして、その恨みで罪を重ね続け、ついには怪となったものでした。蜘蛛は仲睦まじいわたしたちを妬み、夫にとりついて頭を狂わせ、わたしを殺させたのでした。
蜘蛛にとりつかれたのが原因とはいえ、妻を殺してしまった夫は罪びとの世にゆき、月の清めを受けねばなりませんでした。
わたしは夫に近付くと、冷たいガラスをなでながら、彼に向かって言いました。
「外に出て、お月さまをあびましょう。そうすれば、少しずつ、ガラスが溶けてくると言いますから」わたしは車いすを押し、彼を家の外へと連れ出しました。そして廃墟の町の小さな広場へとやってきました。そこにはまるで、敷石に落ちてくる音さえ聞こえそうなほど、たっぷりと月光が降り注いでいました。わたしは車いすの横に座り、ガラスの向こうの彼の横顔を見ました。彼の額に、わたしは触れたいと願いました。頬をよせ、くちづけをし、抱きしめたいと願いました。しかし夫は、決して誰も寄せつけようとせず、ガラスに閉じこもったままずっと固く目を閉じているのです。わたしは涙にぬれたほおをガラスにおしつけながら、言いました。
「もういい、もういいのよ、あなたのせいではなかったのよ」わたしたちはしばし、ふたりで月を浴びながら、何も言わず静かに寄り添っていました。
風向きが変わり、時間が迫っていることを知らせました。わたしはガラスに口づけをすると、「もう行かなくては」と夫にささやきました。そして車いすを押しながら家に戻り、夫を、少しでも月光に当たるように、窓のそばにつれてゆきました。
「ひと月したら、またくるわ。今度くるときは、なにかいいものをもってきましょう。あなたの悦びそうなもの、何がいいかしら」そう言うと、ふと誰かが小さな声で答えました。
「小さな茶碗がよいわ。それとアメシストの板もいるわ」
声の主は、いつの間にか壁にはりついていたあの蜘蛛でした。わたしは思わず立ち上がりました。しかし蜘蛛はわたしが何かを言う前に、さっと逃げていってしまいました。
「なんのつもりでしょう」とわたしは言いながら、確かにそれはよいと感じました。今度はアメシストに透かして月光を碗に汲み、軟膏に混ぜてガラスの上に塗ってみましょう。
風に帰り路をせかされながら、わたしは蜘蛛の心が何のためにそれをわたしに教えたのか、考えていました。
いつもながら不思議な物語ですね。
蜘蛛が教えた、というのが意味深ですね。
何を望んでいるのでしょう・・。
青城さんの物語は救いがない物が多いですが、
少しだけ、なんだろうと後で思わせる余韻がありますね。
12月になりましたので、魔法いっぱいのこの季節を
心豊かにお過ごしくださいね。
ご訪問有難うございます。
>コメントありがとうございます。
月の世の物語は、ショートショートをつなげた長編小説です。この蜘蛛も、あとで出てきます。小さな悲しみや苦しみを重ねながら、大きな救いに向かってゆくのです。
まかろんさんのブログにはよくお邪魔します。明るいお茶会の香りがするようで、とても好きです。