●歩いた日:2018年12月2日(日)
●歩いた所
・六郷:往還南、小安門、大町、上町、米町、馬場、新町、赤城、白山、荒町
●歩いたログ(足跡)(道のり6.3km)
(以上の地図:国土地理院)
(息子の結婚式で横浜に出かけたり雑用などに追われ、1週間ほど投稿の間隔が空いてしまいました。また、以前のペースでブログの投稿を再開したいと思います。)
赤い門を目指して行くと門の脇に「台蓮寺正門」と刻まれた石柱が立ち、その隣には「板碑 台蓮寺応永碑」と書かれた標柱がある。どんな板碑かと興味がわき、正門をくぐって境内に入る。参道の右手奥に大きな寺が建つ。まっすぐ進んで突き当りを右に曲がるとまもなく、板碑の大きな説明板がある。
(「台蓮寺」の板碑)
説明板左奥の大きな石が板碑である。板碑とは石造りの卒塔婆のことで、鎌倉・室町時代に死者の追善などのために建立したもの。説明によると、本町区域内に多数存在する板碑の中でも最大のもので、建立の事情が推察できる極めて貴重な存在、とある。鎌倉・室町時代の建立となると、石碑でもほとんどの文字が判読できなくなってしまうが、この板碑は刻文が判読できる数少ないものなのであろう。
それにしても、建立された応永5年(1398年)は「室町時代」の前期で、こうした板碑が「六郷」に数多く存在するということは、「六郷」の歴史の古さを示していると思われる。清水の恵みによるものであろうか。
「台蓮寺」からまたもとの道に引き返して西に進む。「手づくり工房 湧子ちゃん」を過ぎるとすぐ、スタートしてまもなく昔の「羽州街道」の方(北)に曲がった十字路に至る。そこを今度は南に折れて少し進むと、右手に大きな駐車場がある。「六郷」の清水めぐりや祭りなどに来る観光客のための駐車場のようだ。まっすぐ行くとすぐ「国道13号」に出るが、そこから引き返してまた西に向かい、車の少し手前で「東山」方向にカメラを向ける。
📷012:「東山」を望む
晴れ上がった青空の下に薄い雪化粧した「東山」が連なる。道奥左上のピークは奥が「女神山」、手前が「秋田女神」、中央左寄りの一番高いところが「真昼岳」。
道左手の切妻の大きな屋根がJAの米倉庫で、その奥に「ニテコ清水」の高い木立がのぞく。左手奥の杉林は「熊野神社」の境内である。
昼の時刻を少し過ぎたので、急いで我が家に向けて車を走らせる。
最後に今回歩いたところの昔の航空写真をご覧いただく。まずは昭和51年。
「六郷バイパス」=現国道13号がすでに整備されているものの、道沿いには建物がほとんどなく開通直後のようだ。ほかの道も現在とほぼ同じであるが、「六郷小学校」からキラキラ光るテープを張った小さな社に至る道(黄色線)はまだ整備されていない。
航空写真の撮影範囲の区切りの関係から、車を止めた場所のすぐ近くにある「側清水」の木立が、左上隅にかろうじて写っている。写真に写る「側清水」前の道は現在通り抜けできないようになっており、ログ地図を見るとわかるように、この道のすぐ左手(西側)に新しい道が付け替えられている。
写真を見て気付いたことを2~3述べてみる。
「ニテコ清水」のすぐ南側、現在「手づくり工房 湧子ちゃん」の建物と駐車場がある場所は、当時街中に残る田んぼであったことがわかる。「六郷小学校」は現在、茶色の鉄筋コンクリートの校舎であるが、当時は木造の建物と思われ、Eの字を横にしたようなかなり大きな校舎のようである。敷地の右下の建物が体育館か?。
橙色で印を付けた交差点を結んだ道が昔の国道13号=「羽州街道」である。右側上の印の十字路が「羽州街道どまん中」の看板が立つ「米町」の交差点。
(その7に続く)