<「豊川八丁堀・観音堂」付近のH30年の航空写真>
●歩いた日:2019年10月11日(金)
●歩いた所
・東長野:町後
・豊 受:真土、伊勢堂、下八丁堀、上八丁堀、久保、街道添、元畑、米沢、斉内道下、観音堂、治内野、川端街道下
●歩いたログ(足跡)(道のり5.6km)
(以上の地図:国土地理院)
(📷014地点から西に進み)カーブを過ぎた辺りで、行く手にカメラを向ける。
📷015:「東長野」を望む
こちらも見事な杉木立である。左手の木立のまん中辺りが、以前「囲ノ内」を歩いた時に立ち寄った「別雷(ワケイカヅチ)神社」の建つ場所か。
道奥左手に、私の車と、「ささら舞」の絵が描かれていた水利施設が小さく写る。この日はその場所から右手の方に向かって歩き始めた。
その手前の田んぼもまだ稲が残っており、稲刈りの最中であった。一人で作業しており、軽トラに籾(モミ)がいっぱいになれば、コンバインの運転を中断して運んで行くのであろう。
最後に航空写真をご覧いただくが、今回歩いた場所はH30年の写真があったので、それから。
(H30年。国土地理院HPからDL。以下同じ。)
以前のブログでH28年の写真をご覧いただいたことがあるが、その写真は7月に撮られた写真で、田んぼは一面濃い緑になっていた。今回の30年の写真は田植え後間もない6月に撮られた写真で、田んぼの緑はまだ濃くない。それでも美しい写真である。
左下の大きな集落は「東長野」で、その東端の十字路が車を置いた場所。歩いた経路を黄色線で書き入れてみた。 下を「斉内川」が流れる。「斉内川橋」が架け替えられたため、県道が緩く右(東)側に湾曲しており、以前の道跡も写っている。 川に接して建つ白い屋根の大きな建物の左手に、斜めに木立が連なる。昔の堤防跡(ログ地図には堤防のマークが今も描かれている)のようだ。
次にS51年の写真。
(S51年)
道、田んぼの区画のなど現在とほとんど同じである。ただ、最後に歩いた、「県道11号」から西に向かった道(黄色の線)はまだ無くて、カギ型の細い道と堤防上を走っていたと思われる道が写る。
「斉内川橋」は架け替えられる前の橋なので、当然ながら県道は橋の北と南の間が一直線で結ばれている。
ところで、この後ご覧いただくS23年は田んぼの区画が整理される前で、そのため、道筋もS51年(あるいは)現在と大きく異なっている部分がある。そこで両年の写真を比較しやすくするため、明らかに同一地点(家、道角の位置など)と確認できる場所に、A~Hまで印を付けてみた。
S23年の写真である。
(S23年)
まずは全体的から印象から書く。これまでブログに載せたS23年の写真も同様だったと思われるが、右側の「県道11号」がやや傾いていることから分かるように、H30年、S51年の写真より少しだけ東に傾いている。この傾きが写真を比べて見る時、微妙に影響する。
それはともかく、今回歩いた地域は、区画整理されていないとはいえ、すでにほとんどが開田され一面に田んぼが広がっている。比較的に水利に恵まれた土地柄で、そんなことが左下に広がる「東長野」の大きな集落が形成された要因なのであろう。
下を流れる「斉内川」は「斉内川橋」の下流で大きく蛇行している。こんなに大きな蛇行はどうしても解消しなければならなかったと考えられる。
「水神社」のある「観音堂」、「県道11号」の西側の「上八丁堀」辺りに注目いただきたい。この写真を見ると、この辺の集落は、県道のすぐ西側を並行して走る道沿いを中心に形成されたように見える。「六郷」から「角館」に向かう道は、かつては「羽州街道」の「上街道」(「江戸時代」初期は、こちらの道が「秋田」に向かうメイン街道)と呼ばれていたようだが、この西側の道が元の街道筋ではなかったか思われる(私の当て推量)。
さて、S51年の写真と見比べながらこちらにもAからHの地点を書き入れた。現在の「県道306号」はGとHの地点をまっすぐ結んでいるので、両地点のほぼ中間、県道の北側にある「久保の墓地」は写真に書き入れた辺りと思われる。当時はもう少し木立が広がっていたようだ。
また、墓地の右上、現在公民館が建つ辺りに、田畑には見えない広い土地がある。形からはグランドのようにも見える。この北西側の「県道11号」沿いに学校がある(写真の外、現在「豊川小学校」が建つ)ので、そのグランドだろうか。
最後にもう一つ気になる場所がある。Eの地点から田んぼ中を南に延びる道があり、その先(「斉内川」の蛇行部分の北)に四角い木立に囲まれた大きな屋敷があり、まん中ある長方形は建物のようだ。現在、この場所は一面の田んぼで、その痕跡のようなものは全くない。かなり由緒のありそうな屋敷に見えるが・・・。
明治・大正時代の姿を色濃く残すS23年の写真をみて、いろいろ想像を巡らすのは楽しい(地元の人に訊けばすぐ分かることかも知れないが)。
最後に、AからHの地点をにらみながら、S23年当時の道筋をS51の写真に書き入れてみたので、それを掲げる。
(再度S51年)
ピンク色の線が無くなった昔の道筋を描いた線である。歩いている時(本文にも書いたが)、C→E、E→Fは昔の道そのままであると思ったが、航空写真でそのことが確認された。また、今の「県道306号」が整備される前には、F→Gはほぼ直線の道で結ばれ、さらに、EのところはY字路になっていて、二本の道が「県道11号」の方に延びていたことも分かる。
(終わり)
●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:419.6km)
「斉内川」と書き入れられた字の左上の赤い線が今回歩いたログです。
次回からは、「旧六郷町」の「東山」の麓、「六郷東根」を歩いた記事を掲載する予定です。
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