<「野荒町」付近のH28年の航空写真>
●歩いた日:2023年5月3日(水)
●歩いた所
・野荒町:伊豆林、前谷地、篭林、篭林後、町ノ内
・境 田:篭林
・金 沢:下野際、中野際、上野際、南明田地、碇、狐森、中谷地、味噌森、高畑、寺田
●歩いたログ(足跡)(道のり7.9km)
(以上の地図:国土地理院)
最後に「伊豆林橋」の上から上流を望んだ写真。
(「出川」と「篭林」の風景)
左上の目立つ木立は「伊豆神社」。写る家々は「篭林」。中央奥に見える茶色の大きな建物は「ヤマダフーズ」。
川面は、春先の日射しの下でまどろんでいるようだ。
この日は「田沢疎水幹線用水路」まで足を延ばしたいと思って、しばらくぶりに8km近く歩いたので、車に戻った時は正午をだいぶ過ぎていた。急いで帰路に着く。
それではいつものように歩いたところの航空写真をご覧いただく。歩いたところが東西に長くなったので、各年次の写真とも西側と東側の部分の二枚ずつになる。
まずはH28年の西側の部分。
「出川」と「国道13号」にまず目を引き付けられる。黄色線は歩いた道筋である。
左下隅に「伊豆林橋」が見える。橋の西たもとに、車を停めた道跡が写る。S51年の写真を見ると分かるように、以前の「伊豆林橋」はもう少し下流側にあり、その橋に至るかつての道の一部である。
「伊豆神社」、「皇太神宮」の北側に連なる家々は「篭林」で、大きな集落であることがわかる。
「出川」から北の「国道13号」沿いには「野荒町」の家々が建ち並ぶ。「出川」と、写真中段やや上の十字路辺りまでが「町ノ内」である。
ただ、「家々が建ち並ぶ」と言っても、道沿いに町屋が軒を接するように連なっている、いわゆる「街」と違って、ここは広い屋敷に大きな家や小屋がゆったりと建ち並んでいる。そして、よく見ると、長四角い建物の長辺が国道と直角になるように建てられていることが分かる。
「国道13号」のこの辺は車で何度も通って家々のたたずまいを見ているが、ほとんどの家々の玄関は、国道に向いているのではなく、南向きになっている。町屋の家の玄関が道に面しているのとは対照的である。
国道の東側に大きな杉林が見える。この杉林は、後で見るS23年の写真でわかるように、この北側にさらに広がっていた森林の一部である。平野部では開田などに伴ってこうした樹林帯がほとんど姿を消してしまったので、この杉林が残っていることは貴重である。
📷020に写る、カーブしている「出川」沿いのあぜ道を示した。あぜ道がカーブしているか否かは別にして、歩いている時は気付かなかった、川沿いのこんな「ふくらみ」はほかにもある(⇈のところ)。これは川の改修前の蛇行跡のようだ。古い写真でも確認して見たい。
なお、上端に「ヤマダフーズ」の大きな社屋が写る。また、蛇足ながら、「納豆発祥の地 美郷町 古戦場の古代ロマンの里」の、国道沿いの看板も写っている。
次に同年の東側の部分。
「出川」の北側に広がる集落は、大きな杉林のすぐ東側が「上野際」、中央が「中野際」、そして右手が「上野際」である。
「野際」は各地にある地名で、「地名へのいざない」によると文字通り「野の際」で、野原のはずれ、端を指す、とある。後でS23年の写真を見ると分かるように、「出川」の北側一帯は、水不足のため戦後になっても田んぼを拓くことができず、森林や原野が多く残っていたところである。その端、はずれに当たることが「野際」の地名の由来と考えられる。
森林や原野が広がっていたところを、写真のような一面の田んぼに変えたのが「田沢疎水幹線用水路」である。その用水路と、水路が役目を終えて、「出川」に流れ落ちる末端が中央やや右手に写る。
写真右手、「上野際会館」のすぐ西側に、南から流れ下る河川(水路)が写るが、「出川」へ注ぐ辺りに留意しておいてほしい。
古い道筋に当たるのではないかと考えた、📸015の「中野際」の古い橋も気に留めておいてほしい。
次にS51年の写真で、これも西側の部分から。
この写真を見てまず目に付くことは、田んぼの区画がH28年とほとんど同じことである。多くの地域では、S51年以降に田んぼの再整備が行われて大区画になっているが、ここは再整備が行われていない。本文には書かなかったが、今回歩いた時に「下野際」から「中野際」のすぐ北側の田んぼでブルドーザーが動き回っていた。ようやく大区画化に着手したようだ。
左下隅に当時の「伊豆林橋」が写る。その橋に向かって北から一直線に道が延びており、車を停めたのはその道跡だと分かる。
「出川」の蛇行跡はH28年よりもはっきり写る。川が改修され、田んぼが整備されても蛇行跡が残っているのは面白い。川や水路の後は底が柔らかく、水が漏れたり、機械が沈んだりしやすいためを思われる。
上端、「ヤマダフーズ」の建物がH28年に比べて小さく、この間の会社の発展ぶりが伺える。
次に同年の東側の部分。
この写真の田んぼの区画も現在とほぼ同じである。前に書いたように、この辺りは「出川」に向かってかなりきつい下り傾斜になっているので、このことも大区画化されていない要因のひとつかもしれない。
「出川」をよく見ると、川原の中に草が生えているのがわかる。現在は左手の橋の辺りまで川底が舗装されているが、当時は未舗装だったようだ。
下部の「河川」に注目していただきたい。現在は本文の写真やH28年の航空写真に見るように、かなり幅広に整備されている。S51年の写真では識別できないような狭い水路のようである。降雨時などに山あいから大量の水が流れ込むので広く改修したのだろう。
ところでこの河川、「出川」のすぐ手前で家にぶつかっており、家を迂回していったん右手に折れてから川に注いでいる。先ほど見たH28年の写真ではまっすぐ川に注いでいるので、正面に建つ家は東側に移転したようだ。。
なお、田んぼの中にかつて水が流れていたと思われる後が浮かんでいる(⇐水路跡)。田んぼが整備される前の河川の跡と思われる。
(⑨に続く)
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