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慈恩の日々

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球体のような同一性

2011-11-28 01:36:46 | 日々・感謝・思うこと
すべての物の価値は等しい───

そのようなことをふと思い出しました

津留晃一の本「多くの人がこの本で変わった」に、その旨が書いてあったのですが、自分は最初はそのことが理解できませんでした

「物の価値は違って当然。稀少なものの値段もつりあがって当然だろう」と、左脳的な自分は疑い深く何度も検証を求めるのですが、どうやらそれは無知の類いだったらしい

相場は常に変動するように決まった値段なんて本当はなくて、ただ人々はこのものにはこれくらいの値段がついてるからこれくらいの価値があるのだろう、と錯覚しながらお金をはらっている

新品と中古の違いというのも「使用済み」というだけで物の値段が下がるというのもよく考えてみると不思議なもので、私達は全く無駄に高いものにお金をはらい続けてるのかもしれませんね

万物は変動するから不変として存在できる。差異そのものは表面的なものでその奥にある価値そのものは、変わらない

例えば、ある人の個性に憧れ、自分もそういうふうになりたいと自分もそのようになったとしても、その個性のデメリットが目につきだすと延々と自己改善を繰り返すようになってしまうことってあるように思う

自分には価値がないという思い込みから人は絶え間のない行動に駆り立てられる面をもあるけれど、存在はそのまま存在するから完全なのであって人の求めていた本当の安らぎというのは最初からそこにあった

「あなたは今しあわせですか?」
一般に言われるマスターという人たちは人々にこのように問いかけるようです

たとえあなたが幸せでない理由を何ページもの文章に渡って述べたとしても
「それで、あなたは今しあわせですか?」
という明快さをもって人の思い込みからくる無知、幻想、無価値感を取り払うよう導いていく

あれは価値がある、あれには価値がないというのも人が(左脳的な面が)考え付いたツールで、道具はあくまで道具に過ぎないけれど、価値観が独り歩きしてしまって才能や個性、実績や成績といったものが人の元から備わっていた完全な存在性というものをバラバラに分断してしまったのかもしれない

テーブルにあるモニュメントとしての完全な球体がある出来事で地面に落ち、粉々になった

そのバラバラになったかけらを拾い集めている

それが現代社会を例えていうとそうなのかもしれない

……けれどその破片を構成している原子

さらにそれを構成しているであろうスペース(一説には人体の99%はスペース《空間》と言われています)そのものは傷つかず存在している

傷つかず、時間にも制約されることのない初めから最後までそこに存在していている至福の存在、それは宗教哲学などでよく述べられますが(ディーパック・チョプラ辺りわかりやすいです)言葉では推定するだけでそのものを語ること、縛ることはできないのかもしれません

詩や散文の行間や組み合わせ、間合いといったものも左脳的な束縛を避ける傾向があるので直感やインスピレーションの世界に属するのでしょうか

無心で紡ぐとはよく言われますね

そのように子供のように夢中でいられるということ

理屈を越えたワクワクに心から従うこと

それが至福というものに近いのでしょうか…?

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