自然そのものは豊かで維持するのには本当はコストは何も掛からない
何の利用価値のない無人島はおそらく誰もいかないと思うので、人の手つかずのその島を維持していくのには別にコストはかからないし、自然以外何も必要はないわけで
人間の暮らしているか、特定の利潤に関係した土地だけに妙なことにコストはかかるらしいです
環境保護や支援を名目に国や団体が活動を行っているけれど、そういったものは宣伝なのだろうか…と思ってしまいます
ただ、環境がコストのかかる特別な処置が必要な程荒れ果てるのは、人間が資源の乱獲、開発を繰り返してきた結果で、元々は自然は人間がいなくても回復できるし、存在できていたのだろうと思ってしまう
やはり地球上でお金を交換手段に使っているのは人間だけなのでしょう…
地球という星が誕生してから生物が誕生し、生活できるような今のような環境が整うのに画期的新技術が導入された、とか、お金がいくらかかったか。というような話はたぶんなくて
原始時代の恐竜達が貨幣を持ち歩いて何かの取り引きにそれらを使っていたとは普通は考えにくいので(そういう小説はあった気が)人間だけがお金に動かされているのだろうなと思ってしまうのです
あまりにも当たり前に生活に浸透しすぎていて、自分達の生き方をむしばんでいる不自然なものに気づかない
生まれたときからそれに接していて、育てられていたものを疑うなんてことは、ふつうの人にはそうできるものではなくて
「エンデの遺言──根底からお金を問う」という本を読んでからその辺りの当たり前のように思っていたものがまた覆されたようです
例えばある漁村では細々とその日に必要な魚を採るだけで不自由なく生活できていたけれど都会から銀行員が紙幣というものを携えやってきた
なんでも、口座をつくり預けるだけで利子が増え老後は安定した生活ができるという
村人たちはその話に乗りお金を借り入れ大型漁船を導入、借り入れを返すために更に大規模な漁法を採用し漁獲量を増やしつづけたが、以前よりもより多くの時間を仕事についやさなければならなくなり、結果自分たちのための時間を失い湖から魚たちもいなくなった
イースター島でも人々がモアイ像の建設に傾倒してしまい、結果、人が暮すことができなくなったといいます
現代社会がこれからイースター化するかは判りませんが、今の社会は人々の仕事にもデジタルツールが導入され、さらに金銭もウェブマネー化したことで更にこの傾向に拍車がかかってきているような気もします
フォトショップ等イラスト方面にしても作業効率が上がって見かけのクオリティが上がったのはいいのだけど、その分市場から求められる量や質も上がってしまい結果創り手に負担をかけてしまう面もあるのかもしれません
ツールの性能が均一化していって皆が同じ効果が出せるのもいい面があるかもしれないけれど、更に、情報網の発達で作画ノウハウが容易に得られることで、人が本来時間をかけて熟成される筈だった創作に対する姿勢や人間性、世界に対する自分の立ち位置
そして、何よりもその人だけが育める感受性、世界性のようなものが模倣と効率を主として崇めるキャラクター主義のインスタント製品のようなものにとって変わられているのかもしれません
現代人は食にしても取り入れる文化、情報にしても人工的ポリエステルなものに慣れすぎてしまって、自然本来の食物や風景、情景に育まれること事態に拒絶反応をしめすようになってしまった
あまりにもファーストフードばかりを食べて生活してきた人はオーガニックな自然食品を食べられなくなると聞きますが、それは既に形は人でもミュータントのようなものに踏み入れている面もあり
皆がしているから当たり前、という物事から一歩踏み出して自分達を見直してみる
その少しだけの勇気で私達は変われるのでしょうか
「今、愛しなさい。昼も夜も、そして夏も冬も。あなたはそのためにこの世にいるのです。そしてそれ以外のものはすべて空虚で、幻影に過ぎず。無駄なことなのです。ここにはただひとつの科学である愛がある。ただひとつの豊かさである愛がある。ただひとつの信条である愛がある。愛することがすべての法であり、予言である──アナトール・フランス」
何の利用価値のない無人島はおそらく誰もいかないと思うので、人の手つかずのその島を維持していくのには別にコストはかからないし、自然以外何も必要はないわけで
人間の暮らしているか、特定の利潤に関係した土地だけに妙なことにコストはかかるらしいです
環境保護や支援を名目に国や団体が活動を行っているけれど、そういったものは宣伝なのだろうか…と思ってしまいます
ただ、環境がコストのかかる特別な処置が必要な程荒れ果てるのは、人間が資源の乱獲、開発を繰り返してきた結果で、元々は自然は人間がいなくても回復できるし、存在できていたのだろうと思ってしまう
やはり地球上でお金を交換手段に使っているのは人間だけなのでしょう…
地球という星が誕生してから生物が誕生し、生活できるような今のような環境が整うのに画期的新技術が導入された、とか、お金がいくらかかったか。というような話はたぶんなくて
原始時代の恐竜達が貨幣を持ち歩いて何かの取り引きにそれらを使っていたとは普通は考えにくいので(そういう小説はあった気が)人間だけがお金に動かされているのだろうなと思ってしまうのです
あまりにも当たり前に生活に浸透しすぎていて、自分達の生き方をむしばんでいる不自然なものに気づかない
生まれたときからそれに接していて、育てられていたものを疑うなんてことは、ふつうの人にはそうできるものではなくて
「エンデの遺言──根底からお金を問う」という本を読んでからその辺りの当たり前のように思っていたものがまた覆されたようです
例えばある漁村では細々とその日に必要な魚を採るだけで不自由なく生活できていたけれど都会から銀行員が紙幣というものを携えやってきた
なんでも、口座をつくり預けるだけで利子が増え老後は安定した生活ができるという
村人たちはその話に乗りお金を借り入れ大型漁船を導入、借り入れを返すために更に大規模な漁法を採用し漁獲量を増やしつづけたが、以前よりもより多くの時間を仕事についやさなければならなくなり、結果自分たちのための時間を失い湖から魚たちもいなくなった
イースター島でも人々がモアイ像の建設に傾倒してしまい、結果、人が暮すことができなくなったといいます
現代社会がこれからイースター化するかは判りませんが、今の社会は人々の仕事にもデジタルツールが導入され、さらに金銭もウェブマネー化したことで更にこの傾向に拍車がかかってきているような気もします
フォトショップ等イラスト方面にしても作業効率が上がって見かけのクオリティが上がったのはいいのだけど、その分市場から求められる量や質も上がってしまい結果創り手に負担をかけてしまう面もあるのかもしれません
ツールの性能が均一化していって皆が同じ効果が出せるのもいい面があるかもしれないけれど、更に、情報網の発達で作画ノウハウが容易に得られることで、人が本来時間をかけて熟成される筈だった創作に対する姿勢や人間性、世界に対する自分の立ち位置
そして、何よりもその人だけが育める感受性、世界性のようなものが模倣と効率を主として崇めるキャラクター主義のインスタント製品のようなものにとって変わられているのかもしれません
現代人は食にしても取り入れる文化、情報にしても人工的ポリエステルなものに慣れすぎてしまって、自然本来の食物や風景、情景に育まれること事態に拒絶反応をしめすようになってしまった
あまりにもファーストフードばかりを食べて生活してきた人はオーガニックな自然食品を食べられなくなると聞きますが、それは既に形は人でもミュータントのようなものに踏み入れている面もあり
皆がしているから当たり前、という物事から一歩踏み出して自分達を見直してみる
その少しだけの勇気で私達は変われるのでしょうか
「今、愛しなさい。昼も夜も、そして夏も冬も。あなたはそのためにこの世にいるのです。そしてそれ以外のものはすべて空虚で、幻影に過ぎず。無駄なことなのです。ここにはただひとつの科学である愛がある。ただひとつの豊かさである愛がある。ただひとつの信条である愛がある。愛することがすべての法であり、予言である──アナトール・フランス」