シャーマンの呼吸

自然と人を繋ぐ

シャーマンの弟子

【ヒモトレその2】メッセージ

2024-04-22 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

 

『できないことをしようとするから苦しいんだ』

 

 

百合は、薔薇にはなれない。

百合は、百合らしく咲けばいい。

 

*以下、サンダー・ウルフの個人的な記録

 

 

 

 

ヒモトレ。1日目。

ちょっとタスキ掛けした日の夜。

 

なかなかいい眠りができた。

最近また少し緊張気味だった身体が、ゆったりと休めるような睡眠だった。

 

 

 

 

ヒモトレ。2日目。

タスキ掛けと腰ヒモ。

 

なんとなく、身体が空(カラ)になった感じ。

だけど、なんだか、風向きが怪しくて……。

過去に向かって風が吹いていて……。

せっかくの空(カラ)に、『過去』が入ってきてしまって、つい『古いやり方をなぞる自分』ばかり。詳しく言えば『退行してしまう意識』かな。

 

このまま「ありもしない自分探し」をしてしまいそうな雰囲気。

「ここに居る自分」を探しに、どこか遠くへ行ってしまいそうな感じ。

 

空(カラ)を何かで埋めたい感じ。

 

このまま動乱の中へ走って行ってしまうことも、あり得る感じ。

 

 

 

 

 

 

シリアスにならないように、散歩に出かけた。

強風がまた、わたしを過去へ押し戻すかのような、向かい風。

 

けれども、ふと、足が止まった。

 

『できないことをしようとするから苦しいんだ』

 

脈絡のないようであって、ストンと身体に落ちたメッセージ。

向かい風に踏ん張っていた力が、ふっと抜けた。

 

 

 

 

 

 

わたしは、音楽を辞めることができない。

 

ツラくても、苦しくても、どうしても、辞めることができない。

 

そんな自分を、ずっと不思議に思って生きてきた。

「腐れ縁」だと割り切って、音楽を続けてきたような感じだ。

 

転機は、去年の9月。

思いっきり体調を崩したときに、それは発覚した。

 

仕事に休みの連絡を入れることよりも、友に約束のキャンセルを伝えるよりも……。

わたしは、レッスンを休むことに泣いたのだ。

 

なんでだろうと、しばらく考えた。

そして、気づいてしまった。

 

「わたしは、愛されるために、音楽をやってきたんだ」と。

 

もう少し上手にピアノが弾ければ、愛されるかもしれない。

もう少し音楽の才能があれば、愛されたかもしれない。

 

わたしは、母に愛されたくて、音楽を続けてきたのだ。

 

もう愛されるための行動なんて、ほとんど卒業したつもりでいた。

だから、ショックだったなぁ。

 

「ああ、だから、音楽を辞められなかったんだ。」

「こんなにツラいのに、こんなに苦しいのに、どうしても、辞められなかったんだ。」

 

 

 

 

 

これから先、わたしが音楽をやるか、辞めるかは、自由だ。

だけど、これまでの経験と知識と技術は、わたし自身のものだ。

 

 

 

 

染み付いた向上志向が、苦しい。

気づいたからって、全然抜けない、癖。

 

 

ゆっくり。

 

リハビリみたいに、遊びながら、楽しんであげたい。

 

ゆっくり、探求の道へ。

 

これまでの経験と知識と技術は、わたし自身のものだから。

 

音楽だって、守破離なんだよ。

 

それが、今のわたしの希望だ。

 

 

 

 

欲しかった才能。

愛されたかったわたし。

 

 

 

 

愛されるためじゃなく、愛するために、唄いたい。

 

 

 

この身体にある愛。

 

この身体が踊り出す。唄い出す。

 

それは、しあわせ。

 

 

 


【ヒモトレその1】気づいたらやるべし

2024-04-21 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

 

数年前に、知った。
ヒモトレ。

古武術研究家の甲野先生の講座で、他の参加者がヒモトレを体験するのを見ていた。

けれども、それから、自分で調べたり、実践したりすることは、なかった。

 

 

 



わたしは、夏には甚平を愛用している。
だからこそ、現代の生活における洋服の機能性や利便性を受け入れる気持ちもある。

けれど、たすき掛けの、心地よさよ。

洋服じゃ、できない。

一人暮らしのとき、部屋着は浴衣だった。
え、うん、もちろん、ナルシストな感じは否定しない。

でも、それだけじゃなかった。
俺は『腰で紐を結びたかった』んだよ。

洋服じゃ、できない。


何言ってんだよって、自分でも思うよ。
だけど、俺は腰で紐を結ぶと、すげぇ落ち着くんだよ。「腰に刀を差したい」っていう意味わかんない欲求も、半分くらい満たされるんだ。

タイパンツを、腰で紐を結べるようにリメイクしたこともあった。
それが心地よくて、腰で紐が結べるように、一から自分でズボンを縫い作ったこともあった。

(今も作ってる)

 

 

 

 

 


ヒモトレの説明には、ヘソのあたりで結ぶと書いてある。


わたしは、ヘソのあたりよりも、骨盤のすぐ上で結ぶ方が落ち着くのだ。(男女でヘソの位置が違うらしい)
多くの洋服の、ウエストの位置の紐じゃ、上すぎる。


そう、わたしは知っている。

きっと、紐と相性がいいのかもしれない。
わたしの身体は、紐で落ち着くのだ。

 



裁縫箱から、ありったけの紐を集めてみた。

改めて。
これからよろしく。

ヒモトレ、この身体で研究する余地、大いにあり。

 

 


丹田に愛を

2024-04-07 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

【丹田に愛を】


原キョウコさんのエナジーエナジーダンス合宿の際に、たどり着いた感覚。
これから記すのは、「丹田にイチゴ牛乳」と思うまでの経過である。
(一応、笑うところである)

 




もとは「中心に愛を」という言葉だった。
もしも不安や恐怖があるのなら、「中心を愛にすり替えてしまう」と。

このとき、最初に感じたのは、わたしにとって恐ろしく馴染んだ『解離』の感覚だった。
本心を無視する感じ、本音を見て見ぬふりする感じ、心の内にシャッターを下ろす感じ、麻痺させる感じ、無理に取り繕う感じ……。

どうしよう、「思考の中心を愛にする」こと……、それとも、「心の中心を愛にする」こと……。

はて、中心とは一体どこなのだ。
解離し始める自分を見捨てぬよう、違和感に寄り添い続けていた。

そこで改めて考える。
「わたしは、合宿に何をしに行くのだ?」

……身体だ。
身体のことをしに行くのだ。

となれば、中心とは、『身体の中心』のことだ。

身体の中心とは、丹田である。
(ほかにも様々な捉え方があるが、割愛する。またいずれ書く)

【丹田に愛を】

そう想うと、解離はフッと落ち着いた。
わたしは、この実感を得ることができたとき、確かな成長の手ごたえを感じた。
「合宿の成果はもうこれだけでいい」と思えるほどに。

 

 

 

 



この体験をして以来、ときどき思い出すと【丹田に愛を】という呪文を唱える。

散歩してて、前から人が来たとき。
職場に向かうとき。
他人のことを考えすぎてしまうとき。
眠るとき。

しかし、これらは、自分のエネルギーを保てる余裕があるときに限られていた。
端的に言えば、近くに人が居ないとき。ひとりのときだ。

ひとり、丹田に愛を。

でも、つい最近、それが変化したのだ。
職場で「丹田に愛を」という呪文が浮かんできた。
こんなこと、今までは、なかったのに。

たくさんの人が居る場所は、数年前に比べれば穏やかにいられるようになったものの、すごく疲れてしまう。
わたしにとっては、まだまだ人のエネルギーに翻弄される場という認識だ。
だから、家でひとりでならできる呪文も、職場ではなかなか発動できないのだった。

子細に語ればこうだ。
・母もしくは他人の視線を内在化した「自分を監視する自分の視線」に怯える
・諸悪の根源はわたしの存在であるという壮大な思い違い
・自分は攻撃される対象だ、と思い込む
・自分の立ち位置を被害者に位置付ける

まだまだ、こうした感覚に陥る瞬間がある。

しかしだ。
どうしたことか、職場でおもむろに「丹田に愛を」が発動したのだった。
そうすると、いつもそうなるように、肚の部分がじんわりとぬくもりを蓄えた。

とても穏やかな振動が、肚を中心に全身へ広がってゆく。

だが、同時に、背中が痛んだ。
コレはアレだ、『恐れ』のサインだ。


つまり、わたしは、大勢の中で「丹田に愛を」という呪文を発動させることに、「恐れ」を抱いた状態になったのだ。

でも、この恐れへの対処は心得ている。
「恐れ」と認知してやるだけでいい。
わたしは恐れている。

大勢の中で「丹田に愛を」という呪文を発動させることに、「恐れ」を抱いている。


だって、ずっと身体を固めてきたから。
鎧で身を守ってきたから。
いつでも逃げられるように臨戦態勢でいることが癖になっていたから。
心を開かないように、シャッターを下ろしてきたから。

だから、じんわり広がろうとする愛という自分が怖いのだ。


職場で「丹田に愛を」ができたらどんなだろう。
きっと……。もっと楽で、ありのままでいられるようになって、不要な防御の嘘なんてつかなくなって……。

だから、唱え続けたよ。
作業をしながら、「丹田に愛を」って。

 

 

 


このプロセスは、また気が向いたら書くかも。



……。あ、オチ?



えっとねぇ~。

呪文を繰り返し過ぎて、何十回かに一回「丹田にイチゴ牛乳」ってなっちゃうバグが発生したんよ。

アイツならイチゴ牛乳かなって、たぶん一瞬だけ思っちゃったんだよね。

まぁ、ゲシュタルト崩壊とかヒューマンエラーとか、そんなんだろうよ。

なんか知らねぇが、すげえ面白かった。

 



「丹田にイチゴ牛乳!」


面白かったぜ☆


根となる身体(後編)

2024-04-05 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

身体感覚に根を伸ばす練習。

そのうち、身体の中が、みっちり根だらけ。

この身体を突き破り、土へと伸びてゆく、隆々とした根。

 

この身体ごと、土に根差していく感じ。

 

イメージを続けていると、身体は『巨大な木』の根の一部となった。

根とは、人から見えない部分だ。

それが誇らしくもあり、けれど少し寂しくもあった。

このまま、わたしは『根』として役割を果たせばいいのか、否か。

 

幹の中心部には、時空世界を想起させるような、光に満ちた筋が通っている。

こらえきれず、その光の中に入ってみる。と、噴水に押し上げられるように、一気にテッペンへ。

 

 

桜だった。

 

満開の桜。

 

 

 

 

ふと、言葉が浮かんでくる。

「この、たった一本の桜で、世界を変えられるのだろうか」

そうだという想いもあるし、そうではないという想いも抱いていた。

 

 

「変わらない世界を、どう生きるか」

以前、小説のテーマとした、この言葉を想い出した。

 

現実世界の諸問題というのは、表面が変わっても、構造が変わらないのだと思う。

 

 

 

 

ともあれ、しばらくは、わたしの桜に、想いを馳せたい。

 

 

 

 

 

 

追記

 

自傷思考を棄てて、雲を見れば、脳の動く部分が、もわぁんと変った。

そんな矢先、「左脳から右脳へ」という話を友達から聴いた。

ソレかもしれん」と思う。

 

 

 

日々の鍛錬と、慣れないチャレンジに、疲れてきてる。

でも、疲れ方がこれまでと違う。

そのことになんとなく安堵しながら、慣れない飛行にくたびれた翼を、休める。

 

 

湯船に浸かって、息を吐く。

 

 

気がつくと、ドォ――ンと根を生やしていた。

人からは見えない部分だけど。

誰にも見てもらえなくても、いいや。

根のネットワークは確かに在る。

 

 

 

 


根となる身体(前編)

2024-04-04 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

【新しい根】
 
 
「根を張るのが大事」と言う。
 
 
わたしは、解離しやすい体質。
空想が得意なこともあって、特に「根を張る」ことが重要になる。
見えている部分の「わたし」を、見えない部分の「根っこ」で支えていくのだ。
 
さて。
 
どこに根を生やすのか。
 
単純に考えれば「大地」だろう。
「地球」「土」「海底」なんかも、アリだね。
 
わたしは、グラウンディングのイメージで得られる「ズドーン」とか「ズゥゥゥーンン」という太い安定感を、根のイメージに繋げることが難しい。
根のワークでは、本当に素直になれると、「ちいさく」「白く」「細い」赤ちゃんの根が、イメージとして出てくる。
気持ち的には、「ズドドドドーン」とか「ズゥゥゥーンン」って、妖怪みたいな根っこを生やしたいんだけど。
 
 
 
それで、『どこに根を生やすのか』って話に戻るけれども。
 
チョット常識を忘れてみると、「身体感覚」に根を生やしたい、と思った。
 
 
この身体は、宇宙。
 
宇宙のエネルギーやサインを受け取るなら。
この身体のエネルギーとサインを受け取ることでもある。
 
もっともっと、自分の身体感覚を、吸い上げたい。
 
「自分の身体感覚に、根を生やしたい」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
仕事してると、「すぐ、意識が頭に上がるな」と気づく。
食事していると、「全く、味に集中してないな」と気づく。
 
今まで「なんとなく」だった気づきに、具体性が増していく。
 
「意識が頭に上がる」っていうのは、「気が上にのぼる」と言い換えても正確だ。
そうなると、『身体感覚』より、比重が『思考』に偏る状態になる。
 
なるほど。
だから、わたしは「自分の身体感覚に、根を生やしたい」と思ったワケだ。
 
 
 
「今ここの身体」に戻れるか、という修行のひとつ。
 
 
 
 
 
 
 
日々、「ちいさく」「白く」「細い」赤ちゃんの根を、自分の身体の感覚に伸ばしていく。
そして、それは。
だんだんと、「しっかりした」「ある程度の太さを持つ」若い根のイメージとなってゆく。
 
 
 
 
 
 
ーーーつづく