シャーマンの呼吸

自然と人を繋ぐ

シャーマンの弟子

身体感覚の言語化という矛盾を、愛して

2024-04-02 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

緩みを『部分』から『全身』へ伝播させてゆく

意識して緩めた『部分』の脱力を、波のように『全身』へ響かせる。

顔の表情、頭の中、内臓のひとつひとつ……。

 

 

 

文章にすると、形のなかったものが徐々に輪郭を持つ。

ボーダーコリーが羊を集めるように、言葉で雲のような感覚たちを集めるのだ。

遠くにいた羊を、いざ間近で見ると、なにか気づくことがあるかもしれない。

同じように、感覚を言葉にしてみると、思いもよらぬことに気づくかもしれないのである。

 

カジュアルに言うと、次のダンジョンへの鍵を見つけるような感じだ。

 

では、何を言葉にするのか。

例えば、《腑に落ちた》体感である。

 

だがしかし、腑に落ちた体感は、えてして言葉にはならない。

 

言葉の領域ではなく、「身体感覚」で分かることだからだ。

それでも、ソレを言語化するのである。

《腑に落ちた》大切な感覚に、言葉という輪郭をもたせることで、身体感覚とのコネクトが強まるのではないだろうか。

 

 

 

 

追記

 

ずっと「恐れ」と認めることができなかった違和感を、「恐れ」だと受け入れてみることができて。

それによって、受け入れることができずに抵抗している状態だと、「なんとも言えない状態」なのだと気づいた。

そして、「なんとも言えないもどかしさ」を言葉にするんだな、とも思った。

 

 

 


浅い呼吸・深い呼吸・労る呼吸

2024-03-17 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

近頃、わたしのボキャブラリーに追加された言葉がある。

「労わるように」だ。

 

 

たとえば呼吸。

「浅い呼吸」を「深い呼吸」にするときに、一生懸命に深い呼吸をしようとする自分に戸惑っていた。

ふっと脱力できる時もあるのだが、たいていは、一生懸命に呼吸を深くしようとするのだった。

 

ところが、「労わるように呼吸する」と言葉にすればどうだろう。

 

『深い呼吸』と『労わる呼吸』
表から見れば、一見同じ動作か。

 

でも、身体の内側で起こる動きのニュアンスが、まったく違っている。

こういう微細な踊りを、いかに感覚していけるか、ということなんだろう。

 

 

ところで。

わたしは今まで、「労る」という言葉に不信感を抱いていたようだった。

どこか胡散臭いとうか、信用ならんというか。ふんぞり返ったヤツに「労われ」と強制される胸糞悪さ……のような。

 

なにかこれまでの経験の中で「労わる」という言葉に偏見を持ったのだろう。

 

 

しかし、その感覚がガラリと変わったのだった。

 

このキッカケは、野口三千三の『原初生命体としての人間』という著書にある。

何気なく、しかしとても大切に、「労わるように」と。体操の手順について述べられていた部分だった。

 

そのとき、わたしのボキャブラリーに、「労わるように」という言葉がスッと入ったのだった。

 

 

 

 

 

不思議なもので、『原初生命体としての人間』を、かれこれ半年以上かけて読んでいる。

というのも、最初の数ページを3日かけて繰り返し読んだ時、「読むタイミングがあるな」と感じたのだ。

それからは、無理に読み進めることをせず、思うまま気まぐれに手に取っては、「あぁー、ここまでかぁー」と感じるところまでを読むのである。

数ページずつ読み、読み返し、を繰り返してきた。

実に面白いのだが、たった数行の文章が、この身体にとっては数ヶ月あるいはもっとたくさんの時間を要する体験となるのである。

そして、身体の探究は生涯を通して続くのだろう、と自然に思わせてくれる。

 

今は、やっと、半分ほど読んだか、というところだ。

 

 

やっぱり、わたしはひとりじゃないのだ。

 

 


【自動思考の自傷思考】

2024-02-04 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

「思考」は「行為」ではない。

けれども、わたしの自己破壊的な思考パターンは、自傷行為にとても近い。

もはや「自傷思考」と呼んで差し支えない。

さらに、それが「自動思考的」になっているのだ。

 

 

身体とともに在ること。

現実を俯瞰して観察すること。

気分や意識を切り替えること。

身体をケアすること。

 

様々な技を身に付けてきて、今気づくことがある。

わたしの「思考」は、まだ絶望しているのだ、と。

 

 

あらゆる物事の最悪のパターンを、豊か過ぎる想像力でありありとイメージし続けてしまう。

これは、ある面から見れば「予習」なのだ。

(もしもこんな最悪のパターンになってしまったら……)というシミュレーションの役割を持つ。

ただし、幼少の頃より磨きに磨きをかけてきた《最悪のパターンの妄想力》は、どんどんスケールが大きくなり、今ではほとんど現実離れしたものになっている。

ついには「自傷思考」と呼べるほどに、その「想像ストーリー」は「被害的で自己破壊的なビジョン」が多くを占めているのだ。

 

 

自身の内側に向いている自傷思考は、臨界点を迎えてしまうとき、外側に向かって「すべて滅べばいい」というような殺戮的思考にも変化するだろう。

 

 

 

 

 

今までも、自分の自傷思考について、立ち止まって見つめることはあった。

けれども、そんなときは、必ず退行していたように思う。

 

非力な子どもの意識に戻ることで、「わたしには耐えられない」という逃げ道が生まれる。

あるいは、「こんなことわからない」「自分に責任を持てない」など、放棄する感覚だ。

『自分がどれほど自傷的な思考を続けているか』という現実から目を背けるために、退行という自己防衛が働いたのではないだろうか。

 

 

 

「自傷思考してんなぁ」と気づくたび、そんな自分に腐りそうになる。

でも、耐えてみようと思うよ。

 


平和の循環(後編)

2024-01-21 00:00:00 | 仮説・プロセス

前回の記事の続き

 

 

そうとなれば、初心に帰ろう。

 

グラウンディングだ。

 

 

 

 

わたしは、睡眠について、『意識領域から無意識領域への移行』という感じを抱くようになっていた。

けれども、純粋な意識の移行というよりも、非現実世界へ、ともすれば逃避のような、もっと言えば「身体を置いて行ける世界」であってほしいという願い……、解放と快楽の世界がそこに在ると信じるような……。

 

わたしは、睡眠を、避難所と位置付けていたのかもしれなかった。重ねて、最近になって自覚できたのだが、このような逃避の瞬間でさえ、自分自身を『被害者』の位置に固定し、夢の中で誰かに癒してもらう様を自作自演していたのだった。

 

 

 

 

そして。

 

ふと、やっと、気づくのである。

 

……あれ? グラウンディングすりゃ、眠れるんじゃねぇか……?

 

 

 

 

このとき、グラウンディングという言葉を、ほかの言葉で補った。

 

自分のために、もう少し分かりやすくするためだ。

 

わたしは、ひとつの呪文を編み出した。

 

『睡眠時のグラウンディング・脱力・鎮静』

 

毎晩、この呪文を唱えた。

 

 

 

 

 

 

 

では、あらためて、これらの体感を、言葉にしてみよう。

 

「わたしは、わざわざ被害者を自作自演し続けずとも、夢の中に癒しを求めずとも、今ここにこそ平和があるではないか」

 

 

 

【睡眠時のグラウンディング・脱力・鎮静……そこから広がっていく感覚について】まとめ

 

①平和へ意識を向ける

②身体のグラウンディング・脱力・鎮静が深まる

③より平和を感じられる

 


平和の循環(前編)

2024-01-14 00:00:00 | 仮説・プロセス

【睡眠時のグラウンディング・脱力・鎮静……そこから広がっていく感覚について】

 

 

 

地味に続けている、睡眠時の研究。

 

バイブレーションの在り方の探求から始まったそれは、ほんの僅かずつではあるものの、感覚の広がりを現し始めた。

 

日々、様々なメッセージを受け取る。が、その中でも、最近味わった深い感覚は『平和の循環』だ。

 

 

まず、平和へ意識を向ける。

 

 

①平和へ意識を向ける

②身体のグラウンディング・脱力・鎮静が深まる

③より平和を感じられる

 

 

この循環だ。

 

 

 

本当は、もっと夢に近い感覚で「平和の循環」というキーワードを感じた。

 

起きて言葉にすると、こんな感じだ。

 

 

 

―――

 

 

 

せっかくなので、経過を詳細にまとめておく。

 

 

 

 

最初は、リラックスタイムのバイブレーションの在り方の探求だった。

 

どうも神経が昂ったまま筋緊張が続いて、睡眠の質がよろしくない日々が続いていた。

 

ともかく、入眠がうまくいかなかった。

 

だから、『夜の振動数・周波数と同調する』チャレンジをしてみた。

 

夜を感覚するのみでなく、わたしのバイブレーションとの一体化を試みた。

 

わたしはわたしではなくなり、夜そのものになるのだ。

 

 

 

 

自分と夜を繋ぐ過程には、様々な試行錯誤があった。

 

自分の身体と夜空を有線で繋いでみたり、空ではなく土と同期してみたり。

 

 

 

 

最終的に心地よいと感じたのは、第七チャクラと宇宙(星空)を繋ぐイメージだ。

大きなものと繋がっている安心感。孤独感が溶けて消え、ここに自分たったひとりだとしても大丈夫な感じ。

 

 

 

 

ただし、その日の自分のコンディションによって、スムーズだったり、まるっきりできなかったり、ムラがある。(ムラがあるのは当然ともいえる)

 

 

 

 

そこで、登場するのが、アイツだ。

 

先に少し『アイツ』の説明をする。

 

 

わたしは、日常を楽に過ごすために、『役』を演じるということを実践している。

 

鬱々とした『わたし』の意識が入った身体は、緊張や疲労でバキバキの状態が癖になっている。だから、『健康なキャラクター』の意識を身体に入れて、身体の状態を楽に変化させるのである。

 

そのために練ってある『役』が、数人いる。そして、つい最近、そこに『新キャラ』が浮かんできて、ソイツがとてもいい仕事をするのであった。

 

 

 

 

ソイツは、どちらかというと、めちゃくちゃなヤツにしか見えなかった。

 

いいかげんで、下品で、だらしないヤツだと思っていた。

 

でも、ふとした拍子に、その役に入ってしまった夜があった。

 

すると、ヤツは、なんとも大きな『安心感』の持ち主なのであった。

 

「夜なんだから、もう寝ようぜ」

 

無気力っぽい声で、至極真っ当なコトを考える。

 

ヤツでいると、身体の力がどんどん抜けていった。

 

『わたし』に欠けた感覚を、ごく自然に持つ人物なのだった。

 

 

 

 

ヤツの根源は、「目の前が平和である」という、安心感なのだと思う。

 

言い換えれば、「目の前が戦場ではない」という、ホッとした脱力感だ。

 

そう、ヤツは戦争を経験している。

 

それは、「わたしの世界の戦争」の経験と、気持ちよく同調するのであった。

 

 

 

 

布団で眠れるあったかさとか。

 

面倒くさい人間がそばに居る愛おしさとか。

 

それがどんなに大切で尊いものか、儚いものなのかを知ってしまっている。

 

戦場じゃない今日は、身体にとって、圧倒的な安心感をもたらしている。

 

わたしの、今日の平和は果たして幸せなのかという思考・疑問なんてものは薄っぺらくて。

 

ヤツの、ただ「生きているな」という実感が、たとえどんな哀しみの伴ったものであったとしても、どうしたって心地いい。

 

これは、文字列の不幸との比較による相対的な幸せの感覚ではなくて。

 

経験したから感じられる絶対的な幸せの感覚、と表現した方がいい気がしていて。

 

 

ヤツの意識でいると、今日があまりにも平和で、ただただ身体がホッとするのだった。

 

 

 

こうして、冒頭の『平和の循環』へと繋がっていくのである。

 

 

 

しかし。

 

これもまたムラがあった。

 

 

そうとなれば、初心に帰ろう。

 

グラウンディングだ。

 

―――続く