近頃、わたしのボキャブラリーに追加された言葉がある。
「労わるように」だ。
たとえば呼吸。
「浅い呼吸」を「深い呼吸」にするときに、一生懸命に深い呼吸をしようとする自分に戸惑っていた。
ふっと脱力できる時もあるのだが、たいていは、一生懸命に呼吸を深くしようとするのだった。
ところが、「労わるように呼吸する」と言葉にすればどうだろう。
『深い呼吸』と『労わる呼吸』
表から見れば、一見同じ動作か。
でも、身体の内側で起こる動きのニュアンスが、まったく違っている。
こういう微細な踊りを、いかに感覚していけるか、ということなんだろう。
ところで。
わたしは今まで、「労る」という言葉に不信感を抱いていたようだった。
どこか胡散臭いとうか、信用ならんというか。ふんぞり返ったヤツに「労われ」と強制される胸糞悪さ……のような。
なにかこれまでの経験の中で「労わる」という言葉に偏見を持ったのだろう。
しかし、その感覚がガラリと変わったのだった。
このキッカケは、野口三千三の『原初生命体としての人間』という著書にある。
何気なく、しかしとても大切に、「労わるように」と。体操の手順について述べられていた部分だった。
そのとき、わたしのボキャブラリーに、「労わるように」という言葉がスッと入ったのだった。
不思議なもので、『原初生命体としての人間』を、かれこれ半年以上かけて読んでいる。
というのも、最初の数ページを3日かけて繰り返し読んだ時、「読むタイミングがあるな」と感じたのだ。
それからは、無理に読み進めることをせず、思うまま気まぐれに手に取っては、「あぁー、ここまでかぁー」と感じるところまでを読むのである。
数ページずつ読み、読み返し、を繰り返してきた。
実に面白いのだが、たった数行の文章が、この身体にとっては数ヶ月あるいはもっとたくさんの時間を要する体験となるのである。
そして、身体の探究は生涯を通して続くのだろう、と自然に思わせてくれる。
今は、やっと、半分ほど読んだか、というところだ。
やっぱり、わたしはひとりじゃないのだ。