ただ生きるために、生きてきた
だって、きっと、いつか……
【ハッピーエンドになったらすべてを話せる】
前回の記事の続きです。
さて、そろそろまとめよう。
……もうまとまるかわからないけれど。
ハッピーエンドをちんたら待っている間に、何かよくわからないものに殺されてしまうような気がした。
・相手の思い通りに振る舞えず、失敗を注意されると、異常な恐怖に襲われる。
・自分の恐怖心を相手に悟らせないように、『大丈夫』を全身全霊で演じる。
・相手の思い通りに振る舞うための、過剰な緊張、極度の疲労。
これをループしている。
不眠、不安定な食欲、集中力低下、注意散漫、感覚鈍麻、麻痺、思考停止、記憶力低下、動悸、頭痛、腹痛、大丈夫に振舞う笑顔…………限界が来ては、僅かにセルフケアをして、限界が来ては、限界を麻痺させて、生きる。
無理だ。
日常生活にも、社会生活にも、支障がある。
ようやく、映画のようなハッピーエンドなどないと、わかった。
だから、こうして、言葉にして、語ることにした。
『わたしの身体は、アンタのものじゃない』
『わたしのこころは、アンタのものじゃない』
『わたしの人生は、アンタのものじゃない』
『わたしは、人形じゃない』
『わたしの身体は、わたしの命は、わたしのものだ』
『わたしは、生きている』
わたしのからだは、わたしのもの。
*
ひとまず、ここまで。
【毒親から、わたしの身体を奪還する】
このプロセスに関わってくれた仲間たち、友人たち、本当にありがとう。
わたしは、今、自由の入り口に立ったような感覚がある。
けれども、それで万々歳というわけにはいかない。
自分の、心身の反応と、地道に向き合い、ひとつひとつ対処して生きていくのだ。
――
このテーマを書き始めたとき、腰が痛かった。
でかいアジサイの植え替えをしたからかもしれない。
身体の要が痛い。
心の要が痛い。
きっと、そういうことだった。
書き終えた今は、腰の痛みはない。
やっぱりアジサイのでかい鉢を持ち上げたせいだったかも。
ーーー以上。
ただ生きている柔らかさに触れ、自分の存在を感じる。
自らをいとおしむ、いつくしむ。
静かに祈る。
言葉に尽くせない陰りがある中でも。
わたしは、今、生きていて楽しいです。
こうして、今を生きていられることに、感謝を。
身体を通して導いてくれた師匠に、心から感謝を。
ありがとうございます。