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日本という国号について    網野善彦(著)  日本の歴史をよみなおす。

2015-10-12 00:34:37 | Weblog


「日本」という国号について、天皇という称号との関係から書かれている。

天皇家に氏名がないのはナゼなのか?

非常におもしろい視点だと思った。

 
 
 
 
第五章 
 
天皇と「日本」の国号
 
 
天皇という称号
 
 昭和天皇が死んで、われわれは戦後はじめてのいろいろな経験をしたわけですが、全体としてみますと、世界の人々は日本の社会のあり方について、多少とも不思議に思い、奇異の目をもって見たところがあったのではないかと思います。もっとも高度に発達した資本主義国にもあるにもかかわらず、原始宗教ともいいうるような、神の儀式が共存していること、またいうまでもないことですが、七世紀後半以後、千三百年にわたって天皇が続いており、今なお、それを象徴として頂くことにさほどの違和感を持っていない日本人の心性など、否定・肯定をふくめて議論が、あちこちから出ていると思います。
 
 
 これから私がお話することも、このような問題に、日本人として、どう答えたらいいかということにつながってくると思います。
 
 
 まず、天皇という称号を持つ存在が、日本の社会の中に現れてくるということは、いうまでもなく、日本列島における国家の形成と切り離しがたいことですが、これが古代の、最初に成立した国家という点で、他の諸民族の国家ともちろん十分に比較しうる国家であることはいうまでもありません。とはいえ、やはりこの国家は、さまざまな歴史的、地理的な偶然の中でそれなりの個性を持って形成されたことをまず考えておく必要があります。
 五,六世紀の日本列島の社会は、畿内を中心とした首長たちの勢力が、大きな力をしだいに持ちはじめ、北九州をはじめ、各地域の首長たちとの対立、抗争を通して、列島の西部をはじめ東部―東日本にその影響をおよぼすようになっていたのですが、全体として、古墳のあり方自体からも知られるように、「未開」で原始的なアミニズムや、呪術の力が強く支配している社会だったとおもいます。
 
 
 畿内の首長たちの中では、後年の天皇につながる大王(おおきみ)の地位は承認されていますが、まだ、対抗する勢力もあり、硬質な制度をつくり上げ、制度そのものによってその地位が安定的に維持される条件がなかったことは間違いないと思います。
 
 そういう状況のなかで、たまたま、以前から朝鮮半島を経由した海を通じての交流があり、すでに多くの影響をうけていた中国大陸に、非常に硬質な長い文明の歴史を背景にした体制を持つ隋・唐の大帝国が成立する。それに強く刺激されて朝鮮半島でも、本格的な国家形成の動きがはじまるのですが、そうした緊張の中で、まだまだ非常にやわらかな状況にあった日本列島の社会が、畿内の首長たちを中心に、それ自体、内発的、積極的に、この中国大陸のハードで合理的、文明的な律令制を受けいれます。
 
 
このように未開色の濃い社会が、文明的な制度をさまざまな条件の中で受容することは、人類史の中で広くみられることですが、列島という条件の中で、これまたやわらかい交通路でもあり障壁でもある海を媒介に、儒教にもとづく制度、世界宗教としての仏教を、多少とも主体的にうけいれたことが、その後の日本列島の社会に大きな影響をおよぼすことになったといわざるを得ないと思います。
 
 
 まさしくこの国家の形成の過程で、天皇という称号が定着するのですが、これまでその時期は推古朝以来という説が主張されていました。けれども、最近は、天皇という称号が安定的に用いられ、定着するのは天武、持統朝―浄御原(きよみはら)律令の制定のころで、厳密にいえば持統からだというのが、古代史家のほぼ通説になっていると思います。
 
 
ですから、この説にしたがって、史実に忠実な立場に立てば、雄略天皇や崇峻天皇はもちろん、天智天皇という「天皇」もいないことになります。こうした厳密さは、神武から数える天皇の代数、しかも江戸時代以来いろいろな数え方をされている代数が、教科書をはじめあちこちで無神経に使われていることからみても、非常に大切なことだと思います。
 
しかも、大宝律令のできた701年に遣唐使が中国大陸に行くのですが、その時の使いは「日本」の使いであると唐の役人にいっています。つまり「日本」という国号も、これまで推古朝とも考えられていましたが、やはりこれも最近の説では七世紀の後半、律令体制の確立した天武・持統のころ、天皇の称号といわばセットになって定まったと考えられています。これも大変大事な点で、このときより前には「日本」も「日本人」も実在していないことをはっきりさせておく必要があります。その意味で縄文人、弥生人はもちろんのこと、聖徳太子も「日本人」ではないのです。
 
 
それはともかくまだまだ未開な要素を残している日本列島の社会と、高度な文明のである中国大陸の律令制とのドッキングのしかた、これがじつはいろいろな形で列島の国家と社会を長く規定しているのですが、天皇の特異性もこのことと関係しています。
 
まず、中国の律令制の骨格は儒教で、天命思想、易姓革命の思想(天子は天の命によってその地位にあるので、天子に徳がなければ、天命があらたまり、天子の姓がかわる、王朝が交替するという思想)がその背景にあるのですが、この国家が律令制を取り入れる時に、この天命思想と易姓革命の思想は注意深く排除しているということが注目されます。もちろん律令とともに儒教をとり入れているのですから、天命思想と日本の天皇が、まったく無縁であったわけではありません。
 
早川庄八さんの研究によりますと、天皇の口頭での発言を文書とした宣命(せんみょう)には、明らかに天命思想につながる内容がもりこまれているのですが、それは八世紀という時代の状況の中で、天武、持統の直系の子孫を天皇とし、それ以外の皇統の人々を排除するための論理として使われている。そして最終的には、天皇の皇位継承の裏付けとなっているのは、皇孫思想なので、高天原から太陽神の子孫であるニニギノミコトが、この国土に降り、その子孫が天皇の位につくのだという、私どもが戦争中にさんざん聞かされた、皇孫思想にほかならない。それを合理化するために、天命思想が用いられているにすぎないのです。
 
しかしこの皇孫思想は、太陽神の子孫としての天皇の立場を継承するというマジカルな正確を持っており、未開な要素を持つ日本列島の社会の中から生まれた神話に裏づけられたもので、「天」という普遍的で明確な概念を前提とする、天命思想とはまったくちがっているといえます。
 
 桓武天皇は、天智系の天皇でして、八世紀、一貫して天皇だった天武系の皇統につながる人を全部抹殺して天皇になった人です。これを「新王朝」と見る見方もあるのですが、その桓武天皇は 昊天上帝(こうてんじょうてい)、天帝を祀る中国大陸風の祭祀をしています。しかしそれも結局は、天武系に対する自らの立場の正統性を主張するための手段として行われただけで、天命思想が皇孫思想にとって代わることはついにありませんでした。
 
 
九世紀以後には、もはや天皇位に関連して、天命思想が問題になるようなことはなくなりますが、十四世紀前半の天皇家の危機にあたって、ふたたびこの思想が表にでてきます。その点はあとでふれます。このように中国大陸の律令制の背景にある天命思想を、日本を国号とする律令国家が注意深く排除していることは、この国家の性格を考えるときの大きな問題となると思います。
 
 
そのこともおおいにかかわりのあることですが、天皇は、氏名(うじな)も姓(かばね)も持っておりません。これも天皇号の確定と、おそらく時を同じくして現れてくる現象ではないかと考えられます。当時の日本列島の社会には、前にもふれましたように族外婚規制を持つ親族組織、氏族(クラン)は、存在していません。ですから律令成立前からみられた氏という集団は、支配層に成立した政治的な性格を持った集団だと考えられています。ここにも中国大陸、朝鮮半島の影響があると思いますが、律令制以前」、そうした氏はそれぞれに直(あたい)、連(むらじ)、公(きみ)、などの姓を持っていました。これは本来、それぞれの氏の首長に対する尊称であったと考えられています。
 
 吉田孝さんの仮説によりますと、律令国家の確立する前、天皇の称号のきまるまえの「大王氏」は氏名と姓を持っていたのではないか、「倭(わ)」が大王の氏名であり、「大王(おおきみ)」が姓だったのではないか、というのですが、これは確かにあり得ることだと私は思います。『隋書』に、600年に隋に来た倭の使いが、倭王はアメを氏名(大陸風には姓)、名前をタラシヒコ、オオキミと号するといっていますが、これは天皇号が定着するまでの過渡的な状態を示しているのではないでしょうか。

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