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大阪奈良の畿内からヤマトが175年に吉備に進入、考霊の子 吉備津彦 仲山太東内

2015-07-20 06:05:54 | 古代史の勉強のカテゴリー
『孝霊天皇の兄の大吉備諸進命の二人の子である稚武彦(吉備津彦)及び弟稚武彦(吉備武彦)兄弟を派遣することにした。

主に兄が祭祀をつかさどり、

弟が戦闘を担当した。

弟のほうは大変戦いに強かった。

 稚武彦兄弟は播磨の道口で祭祀を行いこの戦いの無事終了を祈願した。祈願終了とともに、播磨国周辺の鬼退治をし、弟稚武彦は海路を通って吉備国に入った。現在の岡山市明神崎に上陸した。そこから、再び海路を進み吉備中山の南端花尻に上陸し、吉備中山を拠点として吉備国平定をすることにした』



西暦で175年前後のことだ 専門家の人の文章『 』

この専門家の人によれば、2世紀後半 異常気象になるのか 寒冷化した時期のようです。

寒冷化すると、農作物も 取れず 村によっては 近隣の村を襲って 強盗を働くモノも出たのだ



岡山県 アイタ郡 美作市 楢原 周辺にも 鬼が出没した時代だろうか?



ワシの里みまさか の 中山太神宮 東内(一時は藤内)はなんで 矛を管理していたのか 追及している

此処暫く 古代史を調べていると『矛』 というのは どうも南九州の勢力のようだし

それは 置いておいて・・・



鬼 とは なんぞや?

鬼というのは 素直に考えれば やっぱり 人々を襲って 食べ物などを奪う ってイメージだ

瀬戸内でいえば、島々に隠れ住んで 船を襲ったり

その船に 乗って 各地に出没し 強奪なども しただろう

海賊みたいな 感じだね



2015年7月現在でも 世界中で見れば 海賊は未だにおるから

1850年も 今から 前の時代では海賊をしたり

付近の村を襲ったりした集団はおっただろう

海賊は 銅の矛のような 武器も持っていたり あった かも知れないね



日向の ほうは 寒冷化しても 九州なので その影響は少なかった とも この作者は書かれている



東倭 に属する 地域はとあるが 寒冷化の影響を受けた とも書いてある

東の倭 地域 とは 瀬戸内・吉備や出雲を指すのか・・



西暦175年前後 気候変動により 人々は 外敵から襲われる危険を感じながら 暮らしていたか

今の 中国地方(中四国)では そうだったのだ



この西暦175年ごろは 畿内のヤマト政権ができて

数10年が経た辺りの 年代になるみたいだ



畿内ヤマトは 175年 頃 武力を整えて 

まず 吉備の 東の端の 現在の加古川市(姫路と神戸の間)に 集結し 戦いの勝利を祈願したのだろう

この 進軍を 岡山県の 片山神社が 記録を残している(但し その時代 漢字は無かった ので 言伝えで残した)



そうなんや西暦175年前後

吉備の国は 攻め込まれた 東方向から 海路と陸路から 畿内の大和に 攻められた



そやから その記録を残した 片山神社は かなり古くからあった神社で その時代の吉備の国の元からあった 社といえる



津山市の中山神社に 僕の東内の先祖は 多少 名前が残っているのだが

これは 西暦で言うと700年初頭なので 550年後のことだ



なので 岡山県の 片山 って 苗字は かなり古いと 考えてよい



そんでもな

中山神社は 西暦700年創建だけれどね

中山神社は チュウザン神社とも言って

チュウザンの 元祖は 楢原の 中山太 東内とも 言われているんだ 実はそうなんだけれどね



そうでなければ 年代が まったく 西暦700年では合わないし・・・

450年も 不整合になる 吉備津日子の命



そんでな どうも トーナイの先祖は 隠れキリシタンみたいにして 本心は 出雲を 心の中では

奉っていたという可能性も否定しない

隠れ 出雲信仰かも 知れない



隠れ出雲信仰ということは 大和朝廷のいう事は聞かねば 殺されるし

この辺りの ことは 子孫でないと書けないと思う

津山市の 中山神社の 秘中の秘 の 神技が

五矛の なんとか って 言うから

五矛は ワシの家が 

永年 管理をしている 東内太 仲山宮  



とにかく 175年に 吉備はヤマトに侵入された

それまでは 銅矛を 大切にしていた と思う



この辺りの歴史は

出雲の国譲りとも 関わりが 空想されるが

出雲の 歴史が まだ 東内誠には 理解が進んでいないので 今は なんとも 言えない



ただ孝霊天皇の お子様が 吉備津彦 ということは 吉備氏を調べても 日本史を調べても出てくる



播磨の辺りに 新羅の国から 来て 住んでいた

巨智 コチ という一族は その 吉備津日子の応援をした(大和勢力に入った 姫路 周辺の一族?)

この辺も 間違いないとトーナイ は 思う



この巨智 って 人の子孫の方も HPを作っておられ 拝見させて戴いた

かなり 化け学の優秀な人のようだ

有木神社の HPも管理されておられる

有木さんは よく トーナイブログにも 出てくる

チュザン神社の関係者である 



後の 時代では 東内の関係者も 有木さんところとは 縁組もあったと思うが 僕のブログ 古代史調べでは そこまで 今のところは 調べられていない

吉備津日子の 吉備侵入に 貢献されたことは 確かだろうと思う その 有木さんは 隠岐の島にも

ご縁があり たぶん 朝鮮半島にも ご縁はあると空想します



まあ そういう トーナイも 太をつけるので

どうも 元々は 新羅系のような?

百済というのも 捨てきれないにしろ



どうなんだろう 西暦175年前後 の朝鮮半島の

それぞれの国の力関係っていうか それ

みなま 加羅 韓 とか 任那 とか いろんな国の名前が あるじゃない

時代によっても 消滅したり 変わってる



考霊天皇は新羅に ご縁が深いとは 言われている

鳥取県にも ご縁は深い



そんな文字がない時代のことは 解らないとは 考えてはいけないんだ

村の言伝え というのが 子孫に伝わっていくから



それを伝承 って言うと思う



先日から トーナイ之東内誠 その昔 東内太夫は

風土記の 解釈を書かれたモノを 読みまくって

しかし 漢字が 難しいし 頭が混乱するのだが



コチ って巨智 この 一族が 気になってな

10時間ぐらい 読んでみたが 理解できない



コチ ってのは 渡来人のことを 言うのか?

解らない 理解出来ないんだ



渡来人の中には 東漢氏 とか 西漢氏 って言うんだったっけ 

どうも 畿内でも 奈良方面と 大阪港周辺と 別々に住まいされたんかな~



その人たちが 大和朝廷にかなりの貢献をするんだ

その後に 貴族になられた一族もおられるみたいで



中途半端な 勉強で 中学2年生までしか 勉強もしていない トーナイが 書いていることなので

アホウが書いているのだが 結構に ヒントは掴んできているように 自分では 思ってる

2015年7月20日 早朝5時か



今日は 祝日か なんの日か 調べていないな

播磨風土記で 頭が混乱してる

美作風土記 とか 吉備国風土記って あれば 面白いが

あれば 大和ヤマト朝廷には 都合も悪いこともあり それは編纂されたが 消されてると思う

そんでも 播磨の 加古川の西までは その昔は吉備の国だったので 播磨風土記は追及したい

赤穂市は たぶん 備前の一部 でして

小豆島も 備前 吉備の一部 それは 播磨の国の人も 否定されない と思う



その龍野市周辺から 西北方面 出雲街道というか

ミマサカ道 というか そこには 金属を探した道もある



そうやねん 西国街道が 高槻市から 茨木市

茨木名神高速インターから 西国に向けて

その先 直に 中国自動車道 その 道が

昔の 出雲街道でして



どうやろう 奈良県の宮 と 出雲の宮との

出雲街道の 丁度 真中が ミマサカ 楢原 

中山太神宮だろう

古代の道の ちょうど 中央になる

グーグルの地図で 楢原パーキングがあるのが

仲山太 トーナイでして それは 出雲とヤマトの中央付近なのじゃ



ワシの先祖は 渡来人である

それは 解る 何時の時代に来たのかじゃ

1300年前か

1850年前か

2000年前かだ



それは 興味がある



そんで 祠の中に 藤原もおるし もうワケが解らない 出雲大社もいるし・・・



なんでじゃ???

2015年7月20日 5時半 そろそろ 仕事に出かけるムードにならないと あかん



そういえば そうや

苦難の最中に 仕事のほうは 面しているんだった



資源の 金属が相場が悪いし 中国の経済も危うい

そんな 時を過ごしておる最中やった

月曜日の朝は その 現実に戻らねばならぬ・・・

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