会えないと死んでしまう。
会えると苦しい。でもあまりの美しさに感動する。
わけのわからない楽しいのか苦しいのか。
理屈ではない。
理屈で歌は読めぬと子規は言ったが、理屈で人を好きになる者はいない。
美しい者は美しい。
ただその極致なだけだ。
その反対語はない。
なぜ美しいのか聞きたい。
会えるならば、もうどんなでもいい。
尽くしたい。
「春琴抄」の佐助がうらやましいくらいだ。
「のれはわらわをかるくみて、のようなことをしたるか・・・」
春琴からぶたれる佐助は幸せだ。
佐助はは冬の夜、春琴の足を毎日足で温めていたのだが、
ある日、虫歯があまりに痛くてほおが熱くなり、春琴のあまりにつめたい足で自分の胸が冷え切ってしまうと、自分のほおに足をあてたのが春琴のこころにふれたのである。
なんか、もうドエムやドエスの世界なのかもしれないが、
谷崎潤一郎の『春琴抄』は自分がその作品のなかにはいっていける谷崎のほぼ唯一の小説なのだから。
「美しい人」は、あまりに美しいのでその世界を叙述できない。
帰りに本屋に寄って、文庫本の棚をみていたら、『太平記』が第2巻まででている。
太平記というのは、全然太平ではない、鎌倉幕府末期から室町前期のことを書いた本なのだが、平家物語に続く、この時代物の世界的にすばらしい戦記物をざっと読んでいくと、平家物語と同じく、武将たちの古典に対する教養がすごいことだ。
思うに、戦国時代の、上杉謙信や織田信長をはじめ多くの武将が教養を身につけており、日本文化のなかではけんかをするにも教養が要った。仏教、中国古典、茶道など日本の武のものたちは教養を争って身につけようとした。
しかるに現代では男子の身につけるべき教養とはなにか。
茶道、書道(これは全然だめです)、歴史、哲学
しかも東洋、日本、西洋の三領域にわたる。
とくれば、いったいどうなっていくのだろうか。この国の文化は。
美しい人、それはこの3つの領域のすべてにまたぐ人だ。
どこから見ても美しい。
真善に対抗する価値観はあろうが、美しい人に対抗する価値観はない。
ただひたすら自分が滅びていくだけだ。
太平記のなかで、新田義貞が、勾当台の内侍に会おうとして戦死する場面があるが、
自分もせめてその百分の一は欲しい。
あなたを日の光の下で見ていたい。
ものみな滅び尽くしつつあなたを見る。