通りの真ん中に高級な馬車が止まっていました。客の姿は見当たらず、御者の声だけが聞こえます。
「旦那がた! 全く不意だったのですよ。馬を飛ばしてきたのなら兎も角、並足なのに。わしは三度もどなったんですよ。見ると、この飲んだくれがひょろひょろと通りを横切ろうとしていたんだ。急いで馬を止めたんだが、この男はまっすぐ馬の前へ出てきて、勝手にぶっ倒れたんだ。わざとやったのか、正体もなく飲んだくれていたのか、わしゃ知らねえよ。」
群集の中から「確かにそのとおりだ。」「間違いない。三度どなった。」という叫び声があがります。
ラスコーリニコフは人垣を押しのけて覗き込みました。
「僕はこの人を知っている。マルメラードフという人です。住所も知っています。早く医者を呼んで下さい。金はありますから!」やって来た巡査に興奮して言います。
「すぐそこです。四軒目です。とりあえず家に運んでください。皆さん、酒手ははずみますから。」
家ではカテリーナ(マルメラードフの妻)が、肺病特有の咳に苦しみながら子供の世話をしていました。十歳のポーレチカが病気の小さな弟コーリャの着替えを手伝っています。
妹のリードチカが色も形も分らなくなったぼろを着て立っています。ドアの隙間から他の部屋から煙草の煙が流れ込んできます。カテリーナは咳こみながら、ポーレチカに話しています。
「おまえは本当にしないかもしれないけど、おじいさんはもう一息で県知事になるような偉い人だったのだよ。私は卒業式のとき、県知事や立派な人たちの前で踊ったんだよ。貴族会長の奥さんが舞踏会で私を見かけて、あの時の貴族女学校のお嬢さんでしょうってお尋ねになったわ。お前のお父さん、(今のお父さんではありませんよ)との結婚式にも来て下さったのよ。」
血まみれで意識不明のマルメラードフが運び込まれると、カテリーナは蒼白になって突っ立ったまま苦しそうに肩で息をするばかりでした。子供達はおびえきっていました。
「馬車ではねられたのです。今に気がつきますよ。心配しないで下さい。医者は呼びにやりましたから。お金は僕が払いますから。」ラスコーリニコフの声に答えて、カテリーナは絶望的に叫びます。
「とうとうやったわね!………. まあ、胸がすっかりつぶされて!ひどい血!」
間借り人達が集まってきます。家主の女将は、「ここで死なせるわけにはいかない、病院に連れて行け」と迫りますが、カテリーナは断固拒絶します。
マルメラードフはうめき声で言います。
「坊さんを!」
三人の子供たちはがくがく震えながらおびえきってじっと彼を見つめていました。
マルメラードフは大好きな娘リードチカを見て言います。
「はだし!はだしだよ!」
カテリーナは大声で喚きます。「おだまり!どうしてはだしか、分かっているでしょ」
医者がやってきましたが、「絶望です。」と一言、言ったきりでした。
小柄な白髪の司祭が来て、懺悔の式を行います。
<今死のうとする者に何がわかったろう。マルメラードフの口からは不明瞭な音が出ただけであった。>と書かれています。
人込みの中から、音もなくおずおずとひとりの娘がやってきました。貧困とぼろと死と絶望のこの部屋に、彼女が突然あらわれたことに、群集は奇異な感じを抱きました。
古びて派手な色の絹服、大きな腰張りのスカート、真っ赤な羽のついたこっけいな帽子、夜には不要なパラソル。帽子の下からは、痩せて青白い、おびえたような顔がのぞいていました。
ソーニャでした。作者はこの異様な姿のソーニャを、<十七、八才、痩せて小さかったが、かなりきれいなブロンドの娘で、青い目は特にすばらしかった。>と書いています。
(ドストエフスキーにとって、青色や空色は特別な意味を持っています。青い目は神聖な天使、こどもの純真さの象徴です。)
群集のひそひそ話が聞こえたためか、彼女は目を伏せたままドアの内側で立ち止まったままでした。
司祭が慰めのことばを述べたとき、カテリーナはヒステリックに小さな子供達を指差して言います。
「この子達をどうしたらいいの?」
「神は慈悲深い。主のお助けにすがりなさい。」
「神様がどんなに慈悲深くたって、私達には届きませんよ。」
「そんなことを言ってはいけません。罪ですよ。奥さん。」
「じゃ、これは罪じゃないの?」と、マルメラードフを指して叫びます。
「恐らく償いがでるでしょう。せめて失った収入分でも。」
「あなたは私の言う意味が全く分かってないのね。それに償いって何でしょう。この人は飲んだくれで、自分から馬車に飛び込んだんじゃありませんか。それに収入って何ですの。この人が我が家に持ってきたのは、収入なんかじゃありません。苦しみだけでした。家の中の物をすっかり持ち出して居酒屋へ運んでしまったのよ。この子達と私の生涯を全部居酒屋につぎこんでしまったんですよ。死んでくれてありがたいわ。物入りが減りますもの!」
「死ぬ前には許してあげなければなりません。そんなことを言うのは罪ですぞ。奥さん!」
「お坊さん、許してあげなさいって、言うだけなら何とでも言えますよ。今日だって轢かれなければ、飲んだくれて帰ってきたでしょう。私は明け方まで水へ手を突っ込んで、この人や子供のぼろを洗い、つぎをあて………….これほどにしている私に許せだなんて、そらぞらしい!………….それに今までだって、許してきましたわ。」
恐ろしい咳が彼女の言葉をさえぎりました。ハンカチの中に痰をはき、片手で痛いほど胸を叩きながら、それを司祭に突き出しました。ハンカチは血に染まっていました。
司祭は頭をたれ、口をつぐんでしまいました。
かぶさるように上から覗き込むカテリーナに、マルメラードフは何か言いたそうに舌を動かしていました。カテリーナは彼が許しを請おうとしていることを察して、大声で言います。
「黙ってらっしゃい。いいのよ。分かりますよ。あなたの言いたいことは!」
そのとき、彼はドアの隅に隠れるように立っていたソーニャに気がつき、しきりに身を起そうともがきます。
<彼は人間のものとは思われぬほどの力をふりしぼって、身をもたげ肩肘をついた。
彼はこんな服装の娘を一度も見たことがなかった。不意にそれが彼の娘であることがわかった。さげすまれ、踏みにじられ、おめかしをして、そんな自分を恥じながら、死の床の父と永別の番がくるのをつつましく待っている娘を見て、計り知れぬ苦悩が彼の顔に表われた。
「ソーニャ! 娘、許しておくれ!」
ソーニャはアッとかすかに叫んで、かけより、父を抱きしめると、そのまま意識が薄れてしまった。マルメラードフはソーニャの腕の中で、息をひきとった。>
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ドストエフスキーの『罪と罰』のあのあまりにも有名な、ソーニャの出現の光景である(ソーニャの姿自体はこの前に一度出てきているような気がする)。このフォームはお手軽文学散歩からとらせてもらった。お手軽散歩どころか、おそらく自分が百年かかってもこれだけの散歩はできないものだ。ものすごくもう一度『罪と罰』を読みたくなる。ドストエフスキーの小説に登場する女性は、『虐げられた人々』のネリーが祖父に会いにいく光景と『罪と罰』のソーニャの出現シーンが二大情景である。
。
最近、アイルランド文学のジョイスの『ダブリンの市民』などを読んだが、このソーニャのシーンにくらべれば吹っ飛んでしまう。
今日は夕方は体調が落ちて、まるでペテルブルクのワシリーエフスキー通りを歩く貧乏学生のような気持ちだった。
すかんぴんの感覚でアパートに帰ってきた。
自分が住んでいた仙台の感覚のような気がする。
寒い町で貧乏な学生が夢のようなことを考えている。
自分は美しいあの人のことを一日中思って、町を貧しい学生のように歩いている。