現代は、人々がそれぞれ自分勝手に動いている時代だ。
だからいつものようにその人に頼ろうとしてよりかかろうにも、その人は別の道を歩いている。
だからいったい誰にたよったらいいのだろう。
今の人たちには昔の村といった共同体に対する思い出が無い。
これはある意味おそろしいことでほとんどの人たちは都会人であるということだ。
都会人の生きる道、それはもう路地裏にひっこんでしまうか、やたらしゃべりだすかだろう。
路地裏にひっこんでいるよりパーティーに行きたいとは誰かが昔言っていたことだが、日常でない世界においてどれほどの出会いがあるだろう。
ある意味、山の中の小さな神社にある銀杏の木が、落ち葉をふやして絨毯のようになっている、そこにはきっと昔、パーティーがあったのだ。
そして、今はそこには誰もいない。
けれども、人間はそんな光景を思い浮かべるようでないとどっか生きていけないものではないだろうか。
育ちのよい人間が増えた。暴力のかわりに言論を、正義の言論を、そんなものを言ってもなんか過保護社会の象徴のような気がする。
ここではだから、自分の言葉をつかおうと思う。
人には考え方にくせがあると今日、精神科の先生の講演のなかのひとことだが、さすがにするどいことをみておられる。
人にはくせがあり、そのくせが強い人ほど自分を出してはいけないのだと思う。
自分にもずいぶん癖があり、それを出してはいけないと思うので趣味に沈むことにしている。
最近は、エリアスタディーズといってある地域の歴史や文化や音楽などについていろいろ調べようと思っている。
自分はときとして夢のなかで午前5時の紫色の闇のなかに立っていることがある。
そこは自分が住んでいた仙台の山の光景でもあるけれども、山口県あたりの昔さかえたが今はてきとうにさびれている温泉街の旅館のたちならぶ世界でもあるようだ。
ただよくその建物をみると、古い鉄筋のマンションばかりであるようで、そのなかに誰かがいることがわかっているが、しかし決して探しようが無いことがわかっている。
それは若い人たちが住む、大きな共同体であり、その人もその若い共同体のなかにはいっていった。
人はやがて年をとる。そのことがわかるとき、すべての共同体幻影は崩壊する。
あとに残った青春の廃墟にどうしてすがっていかれようか。
けれども人は広い門からはいるのだろう。
あらゆる技術が瞬時に過去のものとなっていく世界、その世界でメタ世界をどうして人はみつけていくのだろうか。
そのことも考えていこう。