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時の喫茶店

趣味は歴史そして哲学 自然の中に溶け込んでいく心を追い求めたい

Guitarhythm

2014-11-06 19:34:19 | 日記
布袋寅泰を昔聴いていた。

あまりおもしろくなかった。

女性にももてずによく来たもんだ。

かといって草庵をひらく気にはなれず。

今は草庵を開きてかってに暮らしている。

夜ははやく寝るのだがそれまでは、なんかかんか思って反省しては反省していない、そんなことの繰り返しだ。

朝は反省しました、といった気持ちなのだが、夕方には反省していない。

正岡子規と布袋寅泰には関連はない。

けれども、子規はベースボールが好きであったことからも彼は結構新しもの好きであるとも思う。

アンティークからも身を引いたいま、自分の趣味は、子規を読むこと。

そして音楽を適当に流していること。

ただあんまり音楽は普段は流さない。

草庵をひらくには全部自給自足、あるもので済ます。

いつまでも青い山続きの生活。

美人の幻想がひとつ、天空を覆っている。

美人については、ハイデッガーも谷崎潤一郎も悩んだのだから仕方がない。

世界史的、宇宙史的悩みなのだから、誰も答えはいえない。

今は、布袋寅泰を聴いても古典的音楽で安心して聴ける。

自分は夜が非常に普段の日は早いので、そこまでのシンデレラ・ゲームである。


暮れなずむ

2014-11-06 18:54:42 | 日記
暮れなずむ秋よりさらに暮れなずみ我が身は墓へと下りゆく  ガロア

天才数学者ガロワが、恋人をめぐる決闘にでかけるまえの詩である。ガロアは若くして命をちらした。

秋は暮れなずみすべては闇のなかへ

美しい人もどっかの闇のなかへ

ひとりの僕はなにを考えるともなく、以前に2回読んだドストエフスキーの『虐げられた人々』の作中の光景を思い出してみる。

そう、少女ネリーは母の死の前に、母をゆるさなかった祖父のところへ行く。

けれども祖父がたどり着く前に母は貧しい半地下のアパートの一室で死んでしまう。

ネリーは祖父に、彼が娘をゆるさなかったことをせめる。

祖父は、ついにその心の中の愛情をあらわして娘のもとへいそぐ。

祖父は、男とかけおちした娘をいまこそ赦す。

けれども娘は貧困のどん底で死んでしまう。

娘の父もいまは一銭もない、そして娘をゆるさなかった。

けれども最後の瞬間、神の審判が落ち、父は娘のもとへと犬のアゾルカと行く。

孫娘のネリーは、お母さんはどこ?私のおかあさんは?

そういって気を失ってしまう。

赦し合うことがすべてだ。

ドストエフスキーの小説は、ほとんどストーリーに難がある。

膨大な量の神についての思想、無神論的思想の演説、

けれども『虐げられた人々』はその著作をすべて読んだ後で、時間がたって読むと、ドストエフスキーのすべてがつまっていることに気づく。

あの人と話したい、ドストエフスキーの神についての議論、今の社会を崩壊に追い込んでいるもの。

でもそんな話を聞く人はいない。

あの人は美しい、それはこの世のすべてあるように。

自分がこの世のなにものでもないくらいなので、正確にはこのくらいはいらないが。

世界が暮れなずんでいく。

あの人にとって私が見つめることが迷惑であるのと反比例してあの人をみつめたい。

そのことがいけないにしてもこの世のなかにいる一瞬のことだ。

なにが一番いけないのかというと、それはあの人が美しいことだ。

今日は別のことを話そうとおもったが、こんな話になってしまった。

すべてを赦しあうこと、そんなことができるのだろうか。

小さな庵をつくっていろんなことを考えていたい。

そういえば今日はドライブとは何か、ということについて話そうと思っていた。

まあいいか。

あの人を見つめることができて、今日はよかった。

あの人には迷惑だったろうけど。