冬になると年越しのお金とかいろいろ心配だ。
最近、考えることは自分の歴史にはじまりはあるか、終わりはあるか、ということだ。
ずっと以前の自分は未来のことしか考えなかった。
ただ、その際に、自分は今までの1年1年をどうして過ごしてきたかといういうことが材料だった。
ところが、最近のコンピュータリゼーション化のなかで日々の情報があまりに過剰になってしまい、1年も前のことを思い出すのが不可能になってきた。
さらに、長期の療養のなかでみんなと一緒に進んでいくのが不可能になった。
そのときに、ふとした偶然からアンティークの道に入り込んだ。
もう無くなってしまった骨董屋の主人からいろいろなことを教わった。日本人としての生き方さえも教わった。
そして今。自分の追求している美とは、日本美でいう『幽玄』のことではなかったかということだ。
能面のすさまじい美にとらわれる。その暗黒の口中に自分の魂が吸い込まれていく。
ただ、能面のような美人に今まで何人か出会ったが、美人故にどっか冷酷な部分があるような気がした。
その冷酷さもすごければ感嘆しようがたいしたことない冷たさという感じだった。
最近、自分なりの研究のために学士会報のバックナンバーを注文したが、いっこうに返事がこなかったので、どうせ東大しか相手にしないのかと、ふんと思っていたが、メールで案内所および朱印入りの請求書がとどき、案外東大の人も優しいな、と思った。
幽玄の美というのは、だんだん体力が落ちたころに自分の前に画然と現れ渡る。
骨董を買うと、とくに日本骨董は、買うたびに美しい女性に魂を抜かれる、という感じがして、家についたら、もうその骨董を包みからほどいて出すことも無く、布団の周囲に置きっ放しで力つきて寝てしまう。そんな感じだった。
最近の人々は骨董に趣味を燃やす人もなく、自分が骨董趣味では一番年下という状況がこの十年以上続いている。
最近は、しかし刀の鐔を集めたいという年下の同志ができて、やっとひとりではなくなった。
が、今は自分のほうが集める体力がない。というか懇意の骨董屋がもうほとんどなくなってしまった。
というわけでこれまで十年はたったひとりで集めていたのだが、現代の仕事の孤独感のなかで、孤立するよりは、骨董屋にいって遊んでいるほうがいい。
もともと実は印籠が欲しくて骨董屋にいったのだが、以前は骨董屋にもいろいろおもしろいものがあって、楽しかった。
今は、自分も老後のお金がいるので控えることにしている。
ただ、安い値段で古萩にであうなどすてきな場面もある。
骨董にであうのは、小さな古萩だったら広島の田舎にすむ農家の女の子、とかそんな感じで、しかも骨董のすごいのはどんな美女でも百年は完全に生きているということだ。ある意味、百歳の超美女という感じかな。
この記事のはじめに貼ってある印籠は、これは有名なもので、自分のものではない。
しかし、印籠ならこのレベルの印籠を目指すべきであろう。
現代で骨董をあつめる小市民は孤独である。
骨董をやっている同志が周りにはいないからである。
ただ、骨董をやれば、こころが百年以上も前の日本の田舎に帰ることができる。
現代のIT化のなかで、もっとも必要なものはそんな間[あいだ]のある空間である。
骨董はなにも室内空間だけではない。
山の麓や山の中にいって江戸時代にできた神社の社殿などを見るとき、あるいは、昔の街道の岩肌に掘られた不動明王像をみるとき、
そこに自然のなかに生き、自然と共生した日本人の姿を見ることができる。
みなさんも、骨董にいっぺんふりむいてみませんか。
文字の羅列でおかしくなった現代の世界を顧みて歴史美の世界を発見することができると思いますよ。