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時の喫茶店

趣味は歴史そして哲学 自然の中に溶け込んでいく心を追い求めたい

歴史の始まりと途中、そして終わり

2014-11-22 21:41:23 | 日記


冬になると年越しのお金とかいろいろ心配だ。

最近、考えることは自分の歴史にはじまりはあるか、終わりはあるか、ということだ。

ずっと以前の自分は未来のことしか考えなかった。

ただ、その際に、自分は今までの1年1年をどうして過ごしてきたかといういうことが材料だった。

ところが、最近のコンピュータリゼーション化のなかで日々の情報があまりに過剰になってしまい、1年も前のことを思い出すのが不可能になってきた。
さらに、長期の療養のなかでみんなと一緒に進んでいくのが不可能になった。

そのときに、ふとした偶然からアンティークの道に入り込んだ。

もう無くなってしまった骨董屋の主人からいろいろなことを教わった。日本人としての生き方さえも教わった。

そして今。自分の追求している美とは、日本美でいう『幽玄』のことではなかったかということだ。

能面のすさまじい美にとらわれる。その暗黒の口中に自分の魂が吸い込まれていく。

ただ、能面のような美人に今まで何人か出会ったが、美人故にどっか冷酷な部分があるような気がした。
その冷酷さもすごければ感嘆しようがたいしたことない冷たさという感じだった。

最近、自分なりの研究のために学士会報のバックナンバーを注文したが、いっこうに返事がこなかったので、どうせ東大しか相手にしないのかと、ふんと思っていたが、メールで案内所および朱印入りの請求書がとどき、案外東大の人も優しいな、と思った。

幽玄の美というのは、だんだん体力が落ちたころに自分の前に画然と現れ渡る。

骨董を買うと、とくに日本骨董は、買うたびに美しい女性に魂を抜かれる、という感じがして、家についたら、もうその骨董を包みからほどいて出すことも無く、布団の周囲に置きっ放しで力つきて寝てしまう。そんな感じだった。

最近の人々は骨董に趣味を燃やす人もなく、自分が骨董趣味では一番年下という状況がこの十年以上続いている。

最近は、しかし刀の鐔を集めたいという年下の同志ができて、やっとひとりではなくなった。

が、今は自分のほうが集める体力がない。というか懇意の骨董屋がもうほとんどなくなってしまった。

というわけでこれまで十年はたったひとりで集めていたのだが、現代の仕事の孤独感のなかで、孤立するよりは、骨董屋にいって遊んでいるほうがいい。

もともと実は印籠が欲しくて骨董屋にいったのだが、以前は骨董屋にもいろいろおもしろいものがあって、楽しかった。

今は、自分も老後のお金がいるので控えることにしている。

ただ、安い値段で古萩にであうなどすてきな場面もある。

骨董にであうのは、小さな古萩だったら広島の田舎にすむ農家の女の子、とかそんな感じで、しかも骨董のすごいのはどんな美女でも百年は完全に生きているということだ。ある意味、百歳の超美女という感じかな。

この記事のはじめに貼ってある印籠は、これは有名なもので、自分のものではない。
しかし、印籠ならこのレベルの印籠を目指すべきであろう。

現代で骨董をあつめる小市民は孤独である。
骨董をやっている同志が周りにはいないからである。

ただ、骨董をやれば、こころが百年以上も前の日本の田舎に帰ることができる。

現代のIT化のなかで、もっとも必要なものはそんな間[あいだ]のある空間である。

骨董はなにも室内空間だけではない。
山の麓や山の中にいって江戸時代にできた神社の社殿などを見るとき、あるいは、昔の街道の岩肌に掘られた不動明王像をみるとき、
そこに自然のなかに生き、自然と共生した日本人の姿を見ることができる。

みなさんも、骨董にいっぺんふりむいてみませんか。
文字の羅列でおかしくなった現代の世界を顧みて歴史美の世界を発見することができると思いますよ。

聖なるもの

2014-11-21 23:29:51 | 日記



自分は最近、聖なるものを追い求めていた。
しかし、その結果はすごく自分が俗なるものではないかということだ。

最近は、明治の大学などの学校教育制度について少し勉強していた。

そのなかで、日本では医学・法学・工学などの実際的なものに学生が集中するということだ。

自分は、どうもそういうものが苦手で、文科にはいってしまい、そういうものは、大学でいろいろ自分で勝手に大学の書店にある本などを参考にして勉強していた。

その結果、自分には中世ヨーロッパの世界が織りなす世界が楽しくて、ともかく卒業して研究生で在籍している間は、学問への興味を持ち続けることができた。

今の学生の忙しさからみるととてもよい環境にいたのだと思う。

半分、修道士みたいな生活だった。

最近は、すごい美人に出会ってすっかり魂を抜かれてしまい、そのあたりの街角をさまよっていた。

しかし、すべてが消えて思うのは、すべてはなんだったのだろうということだ。

体力もあまりないので、あまり悩む気力も無い。

自己主張もしたくないので、古いものを見たりして夜をすごしている。

聖なるものを追い続けるといつしか心が俗なるものにどっぷり漬かっていることに気づく。

いい加減にこの悪循環から抜け出したいと思っても人はみなひょっとすると自分と同じようなことを思っているのだろうか。


琥珀色のブランデーが漆黒の夜の闇をすいとっていくようだ。

こんな自分にも朝があるのだから、もっとも来て欲しくない朝もあるのだが。

人のように現実的な学問をしていないので、なにかずっと山の中の小民家に花でも育てて生きているようだ。

いやひょっとすると本とかばかりの生活を送っても山の中の生活といかばかりかの違いがあろうか。

ただ、都会の闇は人をほっといてくれるということだけであろうか。

いっそ頭のなかが、琥珀色の液体でそまってくれればと思う。

最近、急に寒くなって風邪をひいたらしい。

いや、心の風邪ならしょっちゅうひいている。

明日は一日寝ていようか。

毎年、体力が低下していくことを感じている。

おまけに、忘れやすい。かなりこれはひどくすすんでいる。

ハンガリーの写真集を中古で買ってみていた。

聖イシュトバーン教会の結婚式の写真がある。花嫁は父親の手に携えられながら石の階段をのぼっていく。

どこの世界でも聖なる瞬間だ。この聖なる瞬間がなぜ永遠に続かないのかは不思議だ。

人の心の中には、聖なるものがあるが、いつも俗なるものが少しだけ強い。チャップリンの殺人狂時代の台詞みたいにいえば。

ほんとにこの俗なる世界のなかで、聖なるこころで聖なる生活をしている人はどんな生活をしているの。


邪魔者は消せ

2014-11-17 18:28:21 | 日記
イギリスの名画の題名だ。
男たちが銀行強盗を行うが、そのなかの若者が弾丸で重傷を負ってしまう。
女は、祖母の言うことを聞かないで、彼のところに行こうとする。
けれどもドーヴァー海峡を渡る汽船の汽笛の音が港で無情に聞こえる。
二人を包囲し迫り来るスコットランドヤード(ロンドン警視庁のこと)の警官たちと犬。

女は、夜空にむけて空砲を二発発射し、つづいてスコットランドヤードの弾丸に倒れる。


なにが邪魔者なのかはわからない。題名のつけかたが第三の男のようにわからない。

けれどもまごうことないイギリスの名画である。

後半にでてくる教会の牧師は、彼をなんとか救おうとして、信仰を男を売ろうとして情報をもつ鳥飼に与える。

女は男の居場所を知って、祖母のことばを聞かずに部屋をでていく。

祖母は、写真を指さす。
そこには美しい若い女性の肖像が。
そしてその若く美しい女性が男に身を捧げ滅びるまでの祖母の姿だったこと。

単純なストーリーのなかに、この映画の感想を誰かが語ったように後半、クリスマス・キャロルを思わせる。

この映画をみたときの感動はすごい。

だが、今、この映画のことを思うと、かつての自分は若い男女のこころに共感したのだが、今はなにか牧師のような気持ちにどこかなっている。
「あなたに信仰をあたえよう」
「信仰て、そんなに高価なものなのですか」
鳥飼のこの言葉は、しかしどこか鳥飼がすべてを悟っているような印象をあたえる。
ひょっとするとこの鳥飼は聖者なのではなかろうか。

若い男と夢中になって恋をする女性の気持ちはわからない。

ながい大学および研究室、さらには放浪生活で、そんな感情はいつのまにかどっかに行ってしまった。
そのような感情がいらないとは思わない。
ただ自分にはそのような能力も機会もなかったというだけだ。

ただ今の年齢になると、牧師や鳥飼のこころはわかるようになってくる。

クリスマスキャロルというのはスクールジーに対する拷問のような映画だが。

牧師は神とのとりなしをする姿。

しかし、鳥飼はそのものが実は神である。

いつのまにか自分たちが失ってしまった、自分たちが子供の時の感傷。

みんなで静かに祝いましょう。

誰もいない自分もひとりで静かに祝います。

メリークリスマス

古萩

2014-11-16 18:57:03 | 日記


ひとはわたり歩いている。
いつもどこかを。
けれども自然の時間はどこにもとどまることを知らない。

広島の骨董店でいつか古萩を手に入れた。
唐津?朝鮮?とかいろいろ言っていたが、店主が萩という話だといわれたとき、
自分の謎がとけた。

古萩は美しい。
貧しくてもつつましく生きるどこか広島あたりの田舎の農家の風景。
そんな感じがする。


祈り

2014-11-13 18:37:04 | 日記
ドストエフスキーの『罪と罰』を読んで思うのは、本当の物語は映像を必要としないということだ。
そういう意味で現代は小説力の落ちた時代だ。

ソーニャの祈り

そう祈り

祈るしか無い

あなたがいつか僕をふりむいてくれることを信じて祈るしか無い。

なにに向かっていのっているのだろう。

宵闇の街にむかっている自分は自然を忘れてしまったのか。

あなたの美しさは、そうポートレートのあなたの笑顔にツタのはの黄緑がわずかにかかっている。

そうして陽光のなかにいるあなたは美しい。

秋の海岸を走っていると、波しぶきが岩にかかって白い祈りをあげる。

修道女のようなその祈りは自分のようなひとりぼっちになにを祈っているのだろう。

あなたと一緒に一度でも砂浜を松並木のとぎれるほうにある行っていってあなたの後ろ姿を見たかった。

いいえ永遠の未来にあなたは必ずいる。

すべてを捧げ尽くして、あなたの後ろ姿を見ていたい。

海しぶきの音が聞こえてくる、そんななかにあなたといるころができるのならば。

a rose in the rain 雨にぬれうつむく薔薇、おまえのおもかげに似たシルエット

くれないの二尺のびたる薔薇の芽のはりやわらかに春雨のふる

あなたが薔薇でも私はその手にこの手をあずけて雨の日、小さな路地を歩きたい。

やさしい薔薇だ。

静かな日だ。あなたの声にかかるように赤ん坊の声がどこかの家のなかから聞こえてくる。

あなたに自分のすべてをささげて、僕はなにもいらない。

なにももっていないけど、なにもいらない。

小さな花瓶がある。

白いやわらかい花瓶だ。

もともとなんなのかは知らないが、花瓶ではなかったかもしれない。

ふと江戸時代の萩のこの小さな花瓶をみていると、

あなたの小さな美しい魂の姿がここにあるように思う。

どんな人でも小さな魂があって生きている。

あなたがひたむきに生きている、その小さなひたむきな姿は、白い小さな花。

雨が降っている。しずくが落ちて白い花がすこしうつむくようだ。

深いダム湖がある。

昔の家々が山影に沈んで、すべては時間のなかに沈静していくようだ。

自分には、このさまよう心のすべてを捧げていける小さな魂が欲しい。

ほんとうに自分はどこにさまようのだろう。

誰もいない。

あなたの姿が修道院のガラスの向こうにうつむいて映る。