別にウクライナで困っていることはない。
それよりは、日本国内で児童が親により虐待死するほうがよほど醜いことだ。
内なる安全保障がそこなわれている日本こそが滅亡の危機にあると思う。
この国をどうやって愛せというのか。文科省。
外なる安全保障について述べる前に、足下が砂のように崩れ去っている。
と格好いいが、私の場合は、家永カノが死んでしまい、その内心的処理にくるしんでいる。
というのは、今まであった素敵な女性は、自分の中でなにかの骨董に置き換えられていっているのだが、家永カノは、あまりに内面過ぎて、なんに置き換えられるのかわからない。
骨董の限界だと思う。
現代において骨董は時代をつくる能力を失っている、という言葉がどこかにあったが、それはほんとうだと思う。
今の文化を牽引しているのは、アニメなのかもしれない。
しかし、自分はアニメをほとんどみないし、ゴールデンカムイだけを読んでいる。
レベルの高い作品だ。
単行本でなければ、家永カノの魅力はわからない。
映像化がむずかしい。
美とか強さとかはかないものに賭ける執念の美しさ。
美とかいうものは、哲学とか音楽をこえたところにあるような気もする。
この美しさはなにか、と自分は頭のなかのデータを検索しながら、それがあてはまらない、美そのものというものを認知せざるを得ない。
混乱する論理は、パラダイムがシフトしても、混乱を続ける。美というものについて。
思うに、男の人生というものは美への服従の本能的欲求と、美からの拒絶にある。
なにものにも服従しない美こそは、女性の到達点として意識されるのだろうが、決して到達できない。