見出し画像

時の関守

「ゆるす」ということ (4)

ある無名の信仰者の、世間ではあまり知られていない話しです。
高僧でもありませんし、聖者として記録されているわけでもありません。

時代は明治時代にさかのぼります。
ある一人の青年がいました。
生来(せいらい)のてんかんもちで、その病気に苦しんでいました。
そんななか、
神様のはなしを聞き、とても感激します。
自分もそんな神様の話しをして、人をたすけたいと思いたち、布教の旅にでます。

きっと、とても純朴で、心がきれいなんでしょうね。
ちょっと今の時代では、考えられない行動です。
山を越えようとして、ふもとの村につきます。
夕暮れでしたが、夜を徹(てっ)して峠を越えるために、出発するのですが、
「私もご一緒しましょう。」と言って、同行した人が泥棒(どろぼう)でした。

峠の難所で、頭をなぐられ、
身ぐるみはがされ、はだかで断崖の下に放り込まれます。
ところが、断崖のなかの松の幹(みき)にひっかかって、九死に一生をえるのです。
そして、次の日の朝、ふもとの駐在所に行くと、驚きの光景に遭遇することになります。

昨夜、自分を殴(なぐ)って、崖の下に放り込んだ泥棒がつかまって、盗まれた財布、着物がそこにあったのです。
巡査はその着物と財布をもって、「これ君のものだろう」といいます。

青年はその時「そうです」という言葉がのどまで、出かかるのですが、
その瞬間、
ある考えが 電光のように頭にひらめいたといいます。



コメント一覧

tokinosekimori-kitaiwahara
@storyteller さんへ
いつも読んでくださってありがとうございます。
ここで書いたかたは、実は実在しています。直接的にはもちろん知りませんが、私にも縁のあるかたなのです。
Unknown
「これ君のものだろう」と尋ねられて
「そうです」と答えなかったのですか!
凡人のわたしには出来ないことです・・・。
続きがとても気になります。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る