「それは私の持ち物です」と、
言いかけますが、
その瞬間に、
青年の頭のなかを、いなずまのように、ある思いがかけあがります。
「私は人だすけがしたくて、布教の旅に出た。
その最初に出会ったのがこの泥棒だ。
その泥棒は神様が出会わしたのだから、この泥棒をたすけ得ずして、後に千万人をたすけようと、それは何になろう。」
そんな思いでした。
それで、
「存(ぞん)じません。私の物ではありません」と、答えます。
巡査はなおも、尋ねます。
「では、君の頭の傷はどうしたのだ」と。
「私は生来(せいらい)の病気持ちで、峠の夜道を歩いている途中、病気がでて、谷間へ落ち、
幸い松の木にひっかかり、たすかりました。
落ちる間に着物がひっかかり、裸になり、この頭の傷も、その時、岩角にうちつけたものと思います。」
青年は最後まで、泥棒を罪人にしようとはしませんでした。
このことが、ほんとうに正しかったのかどうかはわかりませんが、その後青年は生涯、てんかんの発作をおこすことはありませんでした。
その泥棒が、その後、そのことに感激して、更正(こうせい)したとは書いてありません。
もしかしたら、お人好しよと、舌をだして、喜んだだけかもしれませんが…。
ゆるすということは、
相手が反省して、懺悔(ざんげ)したかどうかは関係ないのだと思います。
なぜなら、
ゆるすということは、
ほんとうは、自分をゆるすということなのだからです。
もちろん、私が青年と同じ立場に立ったとき、とても同じ行動をとれる気がしません。
ただ、
どんな行動をとるにしても、
人をゆるす、ゆるさないという、見かけの行為にだけは、
だまされないよう、心に刻(きざ)んでおきたいものです。