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時の関守

「ゆるす」ということ (3)

「ゆるす」ということは、いったいどのようなことなのでしょうか。

私たちは、この人生を生きるにあたって、その人生のなかで、さまざまなあやまちを繰り返すものです。
若さゆえの未熟さ、若気(わかげ)のいたり、取り返しのつくこと、つかないこと。
それが人の死につながったりすれば、なかなか取り返しがつかなくなってしまいます。
自分の未熟さゆえに、人を傷つけてしまった。
謝罪することもできず、うやむやになってしまった、などということもありますよね。

しかし、
霊的な伝統のなかでは、ある意味人間の過ちは、織(お)り込みずみなのだといっています。
なぜなら、
もし、過(あやま)ちをおかして、そのことが誰にも知られなかったとしても、
そのことに対する負債(霊的な意味での返すべき業⋅ごう)というものは、絶対になくなることがないからです。

このことを皆さんは、
「これは自業自得(じごうじとく)ですね。」などと、無意識に使っていますが…。
たとえば、
「浮気したんだから、離婚されるのは自業自得だよね。」
などと使います。
自分のした過(あやま)ちが、ちゃんと意識されているときに、こんな使い方をするようですが…。

自分の罪、過ちが意識されていなかったり、ほんとうに忘れてしまっていたなどというのもありそうですね。
自分の罪、過ちが意識されていようがいまいが、私たちはその結果をいつか、はっきり知ることになる。
このことが実は、この世をほんとうの意味で支配している、絶対真理となれば、話は別でしょうね。

一人一人、それぞれのたましいが、絶対まちがいなく、自分の行った責任をとる、
または、意識させられる、
それが真理であれば、
一般的に考えられている「ゆるす」「ゆるされる」という行為は、ある意味必要なくなると思います。

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