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時の関守

たましいの力 (8)

人間は自分の我(が)を捨て、無心になり、その空いたところに、神の心を置けばよい。

前回、そのように書きました。
とても、簡単なことです。
とても簡単なことに、今初めて気がつきました。
なぜなら、これまでは、我を捨てるなんて、そんなこと絶対にできないと思っていたからです。

我とは、自分そのもの、我をすてたら、自分がなくなってしまう、そう思い込んでいました。
我とは、今まで何十年とすごしてきた、私の歴史そのものです。
その歴史を否定したら、私が私でなくなってしまう。
ずっと、そう思っていました。

今、気づきました。
そんなことがないことに…

人がこの世に生まれ、まず、最低限度の、生活する能力というものを身に付けます。
まず、自分で自分の身を守る。
エゴといわれようと、人は自分の身が危うくなれば、どんなことだってするでしょう?
そして、それが何十年と積み重なっていくと、ほぼほぼ、自分そのものとなっていくのでしょうね。
私も、そのことを疑ったことはありませんでした。
なぜなら、それ以外の自分など考えたこともないのですから…

ただ、たまに、そんな自分とは全く違う、別の人生を生きてみたい、そんな衝動に出会うときはあります。
それは、身近にいる人の、全く以外な側面を知ったときかもしれません。
一冊の本、偶然みた映画かもしれません。
そのとき人は、これまでの人生と全く違う生き方を選択してしまいます。
なにかわからない、衝動のようなものですね。

きっと偶然などないのだろう。
そして、それは、たましいがよしとしたことなのだろう。
もしかすると、そんな人と出会うよう、そんな場面に出くわすように、たましいがセッティングしたのかもしれませんね。

人にとって、身体はとても大切(たいせつ)です。
大切にあつかわなければなりません。
また、身体(からだ)に害をおよぼすものからは、遠ざかるのが無難です。
しかし、だからといって、身体と心中(しんじゅう)する必要もありません。
実際、心中しようにもできません。
身体はあくまで、この世を生きるための、道具、乗り物でしかないのですから。

この身体(からだ)から、派生している自我(エゴ)。
いつか、もうそろそろ距離をおくべき時期だねと。
いつかくるのかもしれませんね、そんな日が。

無心となって、神の心をそっと置くためには、自我というものを、そろそろ、捨てなきゃいけない時期が…
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