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時の関守

イエスと仏陀(ブッタ)は友だちだったの? (4)

イエスと仏陀が、
輪廻転生という、
この世を舞台にした
夢の物語の最後の舞台が、
紀元前ちょっと前にはじまりました。

今回はイエスが主役で、
仏陀はイエスの一弟子として、
裏方にまわりました。
この本では、
マグダラのマリアも実は、
とても重要な役割をになっていたのだと指摘していますが、
ここではそれにふれません。

イエスの物語を、今、私がここに書く必要はないでしょう。
ただ、
キリスト教が主張する物語があります。
罪なきイエスがなぜ磔刑(たっけい)に処されたのか。
なぜイエスは
「主よ、主よ、なぜ私を見捨てたもうのか」と、十字架のうえでつぶやいたのか。
なぜ、
神の子イエスに残酷な
~生身の人間の両手両足を釘(くぎ)でうちつけ、何昼夜も苦しませ続けたうえに殺すという~
苦しみをあたえ、それを神は放置したのか?
その難問に答えるために、
物語がうまれました。
そして、その物語からキリスト教という宗教が生まれました。

物語は
「人間には(エデンの園で)神にそむいたという、原罪があり、
その原罪を、罪なきイエスが代わってつぐなったのだと。」
ただし、
その(罪がつぐなわれる)ためには、人はイエスを信じ、
キリスト教を信仰しなければならない。
物語を信じるならば、全人類がイエスを信じるまで、救済は完成しないということになってしまいます。

そして、イエスが望んでいなかった、
宗教が生まれました。

イエスはただ、こういいたかったのだと思います。
人間は死なない。
次に、
この世に起こってくることすべて、または、自分の身に何が起ころうと、
神に根ざしていないことは、
夢であり、
なんの価値もないこと。

このイエスの最後の生は、
神が脚本を書き、
イエスはそれに同意しました。














コメント一覧

tokinosekimori-kitaiwahara
@2468tenri さんへ
違います。
前世のいんねんは、心の姿、心の傾向のようなもので、今の生での心の姿から推測できます。
原罪は神話上の想像であり、キリスト教のパウロという人が、キリスト教を成立させるために創作した教えです。
それを受け入れるか、受け入れないかは個人の自由ですが、ちゃんと区別はつけるべきと思います。
2468tenri
キリスト教でいう原罪と
仏教でいう前世の因縁と言うのは、
同じではないかも知れませんが、
似て通じる所があると解される。
僕はそう思う。
tokinosekimori-kitaiwahara
@umikazegafukubasho この本に出てくる霊的存在は、イエスの初期の頃から従っていた弟子なのだそうです。
そこで、自分たちが残した主の言葉が教会に破棄されます。
理由は、例えばマグダラのマリアが、イエスと同じくらい素晴らしい教師であったという記述が、教会の怒りをかって、破棄されたり、また、教会にとって都合のわるいものは削除されたといいます。
これらのことは、聖書が成立するあたりの研究でも、よく指摘される一般的な常識といってもよいことです。
それが、この霊的存在によって(私のなかで)確信に変わっただけです。
イエスが宗教を望んでいなかったことは、P180の最後の行に書いてあります。
イエスはすべてを知り、しかし、そのことを責めたりはしなかった。しかし、現在「奇跡のコース」でイエスの本当の考えを伝えていると考えると、望んでいなかったのでしょう。
長くなってしまいました。
書店ではなかなか手にはいらないと思います。
直接出版社(ナチュラルスピリット)
に注文されるか、または、インターネット書店で求められると思います。
umikazegafukubasho
いつも読ませていただき、とても良い刺激をもらっています😊
今回の本の中では、キリスト教はイエスが望んでなかったものと解釈できる内容が書いてあるのでしょうか?
だとしたら…輪廻転生のことも含めて読んでみたいと興味を持ちました!
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