若いときに志(こころざ)したこともありましたが、
今にして思えば、
人から、
「あなたは偉いですね。」と、
ほめられたいとか、
打算的(ださんてき)なものだった気がします。
ですから、
ちょっとした困難から、すぐに逃げてしまっていました。
人生のなかで、
本当の自分に出会う、
神に出会うための、
(ほんとうの)勇気、忍耐がなかったのです。
一般的なことで、
よく人が口にする言葉で、
弱い人間が信仰というものに、依存するんだ。
強い人間は、そんなものに依存しなくても、
この世を生きていけるんだ、という人がいますが、
それは違うと思います。
眼に見えないことを、信じるには勇気がいります。
場当たり的に、一喜一憂するのではなく、十年先、二十年先を見据(みす)え、
(結果がみえなくても)
がんばろうとするには忍耐がいります。
表面的な華(はな)やかさにあこがれたり、打算で続くようなものでありません。
そんな私を、かろうじて(信仰に)引き留めてくれたのは、
妻との出会いがあったからにほかなりません。
若いときに、ある人に話しを聞いたことがありました。
「私は若いとき、村一番の孝行者と言われていました。
ところが、あるときから、
ギャンブルに狂うようになり、ついには、母親が包丁(ほうちょう)をもって、私といっしよに死んでくれと迫られた。」
そんなことがあったそうです。
その瞬間はほんとうにこわかっと、言っていました。
その方は、今でもたまに出会うこともありますが、
人づてに聞いたところでは、
今でも、ギャンブル依存から抜け出てはいないようです。
そのとき、何気(なにげ)なく聞いていましたが、
その方と自分の違いは、紙一重(かみひとえ)だったと思います。
妻と出会わなかったら、その姿は自分の姿でした。