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時の関守

この世のはじまり (1)

この世のはじまりについて、書こうと思ったとき、
どんな書き出しにしようかと考えていると、へんな考えが浮かびました。

この世もあの世も、人間がいてのあの世であり、この世だよなぁと思ってしまいました。
もし、この世に人間という意識をもった存在がいなければ、
この世界に意味があるのだろうか?
意味があるかないか以前に、この世界が存在できるのだろうかと、思ってしまいました。
想像してみてください。

生命とか意識とかが、まったく存在しなくて、ただ無機質な物質が法則のなかで生成、消滅を繰り返しているさまを。

ちょっと理屈っぽくなりましたね。
ただ、最先端の量子力学では、意識があること(もしくは観察するものがあること)によって、
はじめてこの世界に物質(もの)が存在するのだ。
そんな考えもあります。
ですから、あながちこんな考えも間違いでもないようにも思います。

この世のはじまりについて書いてみたいと思いました。
この世界ではなく、この世です。
現代科学が描きだしている、ビックバンからはじまるこの世界ではなく、

まず、真っ暗な混沌(こんとん)があって、そこにかすかな光が芽生え、
薄明かりとなり、大きな光となり、意識という映写機がさまざまな物質をうつしだし、
ついに、その物質(もの)のなかに、意識がはっきりと映しだされるようになった世界を。

なぜ、科学者が描く世界ではないのかというと、
そこには意識という、
もしかして、この世をつくっている根本の原因、
その根本原因かもしれないものを除外しているからです。


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