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時の関守

奇跡の後の人間的すぎる営み (5)

聖母の存在を人々に知らせ、
奇跡の泉を出現させた、
最大の功労者である、
ベルナデットの病は癒(いや)されず、
最後まで、病気に苦しみます。

最後の数年はほとんど寝たきりになったといいます。

なぜ、神はベルナデットを一番に癒(いや)そうとしなかったのでしょうか?
ベルナデットの使命が、
泉を世に送り出すことであったとするならば、
ベルナデットは完璧にやりとげました。

もちろん、私にその答えがわかるわけでもないのですが、
推測することはできます。

単純に、神はベルナデットが好きだった、と思います。
幼子のように単純で、
裏表がなく、
無知であるということは、
言葉をかえれば、
勇気と忍耐にあふれています。
知識が人に勇気をもたらすとは、聞いたことがありません。
知識はときには、
人を迷わせ、躊躇(ちゅうちょ)させるものです。

オーラが見えるという人がいました。
それをみて、
誰かが、「私も見えるようになりたい。 」と、言いました。
すると、
「オーラが見えるということは、その人がこの世で果たさなければならない役目があるのだ。」
と、他の誰かが答えました。
「おまえは、その役目をはたすだけの責任と覚悟はあるのか。
と、さとされました。

「(オーラが見えなくても)おまえにはおまえの役目というものがあるんだよ。」
と最後はやさしくさとされました。

ベルナデットはとくにその最後は、苦しみぬいたといいます。
咳(せき)と痛みと喀血(かっけつ)のなかで、
どんなに苦しくとも決して泣きごとはいわなかった、
黒い瞳に光が消えることもなかったといいます。
「楽になるのはだめです。それよりも、力と忍耐をもらえるようにお祈りしてください。」
と頼んだといいます。

なにがこの少女に、そこまでの忍耐と勇気を与えたのでしょうか?

ベルナデットは聖母との約束をはたすためには、
なにを犠牲にしなければならないのか、知っていたのだと思います。
聖母に、
「あなたは、ちゃんと責任をはたしてくれましたね。
と、
ほめてもらえるよう、がんばりぬいたのだと思います。

ベルナデットのがんばりにくらべると、宗教という組織のその営みは、醜悪とさえいえるものです。
保身にはしり、その存在意義さえ失くすものだったかもしれません。
ただ、逆説的にベルナデットを高めることとなったり、
泉の真実を証明しました。
最終的には彼女を守ったといえなくもありません。

現実の世界で、信仰というものが生き続けるためには、大きな力となることに、
そのことにまちがいはないでしょう。
なぜなら、奇跡のあとにも、人間としての営みは続くのですから…。

奇跡の瞬間が終わったとき、
それは宗教という形に姿を変えるときでもあります。

∗「奇跡の泉ルルドへ」竹下節子
(NTT出版)を参考にしました。



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