奇跡の泉を出現させた、
最大の功労者である、
ベルナデットの病は癒(いや)されず、
最後まで、病気に苦しみます。
最後の数年はほとんど寝たきりになったといいます。
なぜ、神はベルナデットを一番に癒(いや)そうとしなかったのでしょうか?
ベルナデットの使命が、
泉を世に送り出すことであったとするならば、
ベルナデットは完璧にやりとげました。
もちろん、私にその答えがわかるわけでもないのですが、
推測することはできます。
単純に、神はベルナデットが好きだった、と思います。
幼子のように単純で、
裏表がなく、
無知であるということは、
言葉をかえれば、
勇気と忍耐にあふれています。
知識が人に勇気をもたらすとは、聞いたことがありません。
知識はときには、
人を迷わせ、躊躇(ちゅうちょ)させるものです。
オーラが見えるという人がいました。
それをみて、
誰かが、「私も見えるようになりたい。 」と、言いました。
すると、
「オーラが見えるということは、その人がこの世で果たさなければならない役目があるのだ。」
と、他の誰かが答えました。
「おまえは、その役目をはたすだけの責任と覚悟はあるのか。」
と、さとされました。
「(オーラが見えなくても)おまえにはおまえの役目というものがあるんだよ。」
と最後はやさしくさとされました。
ベルナデットはとくにその最後は、苦しみぬいたといいます。
咳(せき)と痛みと喀血(かっけつ)のなかで、
どんなに苦しくとも決して泣きごとはいわなかった、
黒い瞳に光が消えることもなかったといいます。
「楽になるのはだめです。それよりも、力と忍耐をもらえるようにお祈りしてください。」
と頼んだといいます。
なにがこの少女に、そこまでの忍耐と勇気を与えたのでしょうか?
ベルナデットは聖母との約束をはたすためには、
なにを犠牲にしなければならないのか、知っていたのだと思います。
聖母に、
「あなたは、ちゃんと責任をはたしてくれましたね。」
と、
ほめてもらえるよう、がんばりぬいたのだと思います。
ベルナデットのがんばりにくらべると、宗教という組織のその営みは、醜悪とさえいえるものです。
保身にはしり、その存在意義さえ失くすものだったかもしれません。
ただ、逆説的にベルナデットを高めることとなったり、
泉の真実を証明しました。
最終的には彼女を守ったといえなくもありません。
現実の世界で、信仰というものが生き続けるためには、大きな力となることに、
そのことにまちがいはないでしょう。
なぜなら、奇跡のあとにも、人間としての営みは続くのですから…。
奇跡の瞬間が終わったとき、
それは宗教という形に姿を変えるときでもあります。
∗「奇跡の泉ルルドへ」竹下節子
(NTT出版)を参考にしました。