徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ3~

2019-09-03 05:00:00 | 日記
タポーチョ山を超えるさいも、昼間は南洋樹のジャングルにひそみ、日没を待って数人ずつで目的地に向かい、三日がかりで島内唯一の水源地に程近い地獄谷にたっした。
そこは名の示す通り、両側を崖に囲まれた谷で、谷底にはかつて島民の住んでいた、十数軒の草ぶきの小屋が点在していた。医務隊は全員で負傷者を、主計隊もまた全力をあげて食料と飲料水をその小屋に運び込んだ。

負傷者の治療に当たる医務隊とは別に、主計隊は、主計長の藤原治主計大尉や、庶務主任の浜野主計中尉の指揮のもとに、近くの林の中で空襲の合間に飲料水の確保と炊飯に専念し、数日ぶりの握り飯と缶詰などを隊員に配給した。
司令部からは伝令が、2~3時間ごとに戦闘状況を報告してきた。敵は次第にタポーチョ山の攻略に主力を注いできているらしい。

6月25日からの三日間は敵に発見されることもなく、どうやら平穏の日を過ごしたが、四日目ごろからこの地獄谷付近に陸軍部隊や、民間人たちが避難のために続々と集まってきた。
このころから、米地上軍の進撃速度はにわかに急ピッチとなり、わが陸軍部隊は、各地点で苦戦を強いられつつ、次第にタポーチョ山の北側に押し詰められてきているらしかった。
陸軍部隊は、主として43師団の兵で、愛知、岐阜、静岡方面の兵隊が多かった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)