夜になって敵は、日本軍の再突入を警戒してか、この未明に突入した地域付近に、またも機銃と照明弾、曲射砲弾を間断なく放ち続けていた。
それでも夜半になると敵の砲撃もしだいに下火になってきたようだ。
私は50メートルほど離れた、岡本軍医長のいる岩の陰にいて近づいていった。
軍医長と衛生兵は健在だった。
軍医長は「もう今となっては信ずべき指揮系統は全くなくなった。井手中尉はこれからどうするか。敵陣地に再突入するか、またもとの洞窟にもどるか考えよ。」と言われた。
軍医長は「俺は洞窟にもどる」と言われた。軍医長は洞窟で重傷者と運命をともにする覚悟か・・・と私には思われた。
岡本軍医長は、海浜のジャングルの中で偶然一緒になった、301空の軍医長・宮沢軍医少佐(転勤の途中でサイパンに寄られたのか?記憶がさだかでない。)と共に相談して決心されたのかもしれない。
私は暫く決断が出来ず、そばにいた、261空・気象班のI少尉(予備学生出身)と話し合い、結局、私たちは、「もう一度前進することにいたし
ます。」と答えたのであった。岡本軍医長は宮沢軍医少佐と共に兵2名をつれて北の洞窟の方に向かうことになった。
私は岡本軍医長に敬礼し、「これまで色々ありがとうございました。私どもは前進いたします。では、これにてお別れいたします!」と最後の言葉を申し上げた。
私はI少尉と、他の部隊のH主計兵曹(呉鎮所属)と共に暗闇の中を前進することにした。
しかしながら夜になっても、伝えられた再突入の連絡はなく、やむなく私たち3人はひそかに、敵の前線の手前より左翼を大きく迂回し、東海岸方向に出るため、敵の占領地域に潜入した。
夜が明けるとともに、熱帯樹のジャングル内にひそみ、交代で仮眠をとり、体力の消耗を出来るだけ防いだ。日没と共に、電信山を越えるべく東へ進むことに決め、時々小休止しては移動を続けた。
(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)
徳川おてんば姫(東京キララ社)
それでも夜半になると敵の砲撃もしだいに下火になってきたようだ。
私は50メートルほど離れた、岡本軍医長のいる岩の陰にいて近づいていった。
軍医長と衛生兵は健在だった。
軍医長は「もう今となっては信ずべき指揮系統は全くなくなった。井手中尉はこれからどうするか。敵陣地に再突入するか、またもとの洞窟にもどるか考えよ。」と言われた。
軍医長は「俺は洞窟にもどる」と言われた。軍医長は洞窟で重傷者と運命をともにする覚悟か・・・と私には思われた。
岡本軍医長は、海浜のジャングルの中で偶然一緒になった、301空の軍医長・宮沢軍医少佐(転勤の途中でサイパンに寄られたのか?記憶がさだかでない。)と共に相談して決心されたのかもしれない。
私は暫く決断が出来ず、そばにいた、261空・気象班のI少尉(予備学生出身)と話し合い、結局、私たちは、「もう一度前進することにいたし
ます。」と答えたのであった。岡本軍医長は宮沢軍医少佐と共に兵2名をつれて北の洞窟の方に向かうことになった。
私は岡本軍医長に敬礼し、「これまで色々ありがとうございました。私どもは前進いたします。では、これにてお別れいたします!」と最後の言葉を申し上げた。
私はI少尉と、他の部隊のH主計兵曹(呉鎮所属)と共に暗闇の中を前進することにした。
しかしながら夜になっても、伝えられた再突入の連絡はなく、やむなく私たち3人はひそかに、敵の前線の手前より左翼を大きく迂回し、東海岸方向に出るため、敵の占領地域に潜入した。
夜が明けるとともに、熱帯樹のジャングル内にひそみ、交代で仮眠をとり、体力の消耗を出来るだけ防いだ。日没と共に、電信山を越えるべく東へ進むことに決め、時々小休止しては移動を続けた。
(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)
徳川おてんば姫(東京キララ社)