徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

2019-09-20 05:00:00 | 日記
夜になって敵は、日本軍の再突入を警戒してか、この未明に突入した地域付近に、またも機銃と照明弾、曲射砲弾を間断なく放ち続けていた。
それでも夜半になると敵の砲撃もしだいに下火になってきたようだ。
私は50メートルほど離れた、岡本軍医長のいる岩の陰にいて近づいていった。
軍医長と衛生兵は健在だった。

軍医長は「もう今となっては信ずべき指揮系統は全くなくなった。井手中尉はこれからどうするか。敵陣地に再突入するか、またもとの洞窟にもどるか考えよ。」と言われた。
軍医長は「俺は洞窟にもどる」と言われた。軍医長は洞窟で重傷者と運命をともにする覚悟か・・・と私には思われた。

岡本軍医長は、海浜のジャングルの中で偶然一緒になった、301空の軍医長・宮沢軍医少佐(転勤の途中でサイパンに寄られたのか?記憶がさだかでない。)と共に相談して決心されたのかもしれない。
私は暫く決断が出来ず、そばにいた、261空・気象班のI少尉(予備学生出身)と話し合い、結局、私たちは、「もう一度前進することにいたし
ます。」と答えたのであった。岡本軍医長は宮沢軍医少佐と共に兵2名をつれて北の洞窟の方に向かうことになった。

私は岡本軍医長に敬礼し、「これまで色々ありがとうございました。私どもは前進いたします。では、これにてお別れいたします!」と最後の言葉を申し上げた。
私はI少尉と、他の部隊のH主計兵曹(呉鎮所属)と共に暗闇の中を前進することにした。

しかしながら夜になっても、伝えられた再突入の連絡はなく、やむなく私たち3人はひそかに、敵の前線の手前より左翼を大きく迂回し、東海岸方向に出るため、敵の占領地域に潜入した。
夜が明けるとともに、熱帯樹のジャングル内にひそみ、交代で仮眠をとり、体力の消耗を出来るだけ防いだ。日没と共に、電信山を越えるべく東へ進むことに決め、時々小休止しては移動を続けた。


(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

2019-09-19 05:00:00 | 日記
岡本軍医長と兵2名は無事であったが、他の衛生兵は行方がわからず、私はI少尉(予備学生出身)と、他隊のH主計兵曹と3人で岩陰に潜んでいたため、奇跡的に生き残った様である。
私もいつの間に負傷したのか、右の脛(すね)がピリピリと痛む。
見ればズボンが破れて、血がにじんでいる。どうやら、小指の先くらいの傷を負ったらしいが、歩行には支障がなかった。
多分曲射砲の小さな破片によるものであろう。
とにかく、自分で言うのもおかしなことだが、この時点まで生き残っていたとは、まさに奇跡的としか言いようがなかった。

その頃は、もはや指揮系統は全くなく、流言飛語は乱れ飛び、命令らしきものも、疑心暗鬼で、誰かが何かを言うとみな、耳をそばだてて、取るに足らぬことであると、また、不信感が掻き立てられるといったありさまだった。
すでに陸海軍最高司令部は総攻撃の前夜、全員自決されたと聞いていた。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)



父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃4~

2019-09-12 05:00:00 | 日記
かくして、いよいよ突撃の行進がはじまった。
医務隊は第32分隊ということで、総攻撃の後部近くで進撃に加わった。
暗闇の中、ここ数日来の戦闘で倒れたわが陸軍部隊の屍がるいるいとしており、屍臭漂う中を私たちはひたすら押し進んで行った。

午前3時30分ごろ、バナデル水上基地から2キロほど手前の敵陣地付近に、突如としてわぁーという喚声があがった。
先鋒の第一分隊からの突入がはじまったのだ。
米軍陣地では予想もしなかった、早期の日本軍の大規模な総攻撃をうけて、前線は混乱し、曳光弾や機銃弾が方向違いに飛び交う。
30分もしたころ、攻撃部隊はそれまでかなりの速度で進行しつつあったが、隊列が急に止まったかと思うと、先に進んだ兵隊が戻ってくる。

前方から退いてくるもの、後方から進むものとで、予期しない混乱がおこったが、これまでに、総攻撃部隊の半数以上が突入したらしい。
そうこうするうち、やがて東の空が薄明るくなってきた。
そのとき、どこからともなく伝わってきた命令は、本日の総攻撃はこれにて終わり、明早朝を期し再突入するから、各自は海浜近くの珊瑚礁やジャングル
、または岩陰に退避して命令をまて。
と言うものであった。

そこで私たちを含め、突入に間に合わなかった部隊の連中はすべて、海辺の熱帯樹の中に身をひそめた。

医務隊員は、岡本軍医長以下10名が、2~3人ずつに分散してジャングルの中の岩陰に身をひそめた。
陽が昇るとまもなく、敵機が頭上に現われ、私たちの潜んだジャングル付近に急降下で機銃掃射をしかけ、超低空でロケット弾を浴びせてきた。
私たちが潜んだ海浜の沖合1000メートルほどの海上にも、駆逐艦数隻が姿を見せ、砲口を陸上に向けて集中砲火をあびせてきた。

昨夜の前線部隊の突入地点は、すでに米軍戦車群に蹂躙されており、彼らは75ミリ砲と機銃を打ち込みながら轟音をたてて前進してきている。
敵戦・爆機の発射する13ミリの曳光弾は、多数の紫白色の線状をなして飛来し、樹木の枝、珊瑚礁や岩石に当たっては、反跳して飛散する。
また、艦砲弾の炸裂を至近距離にうけると、爆風と硝煙の臭い、それに一酸化炭素の発生で瞬間的に呼吸困難をきたす。
その日は終日、空と海と陸地から猛烈なる攻撃が続き、日没と共にようやく終息したのであった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃3~

2019-09-11 05:00:00 | 日記
7月7日、午前1時ーーー主計長・藤原治主計大尉より、最後の盃を上げるための日本酒が配られ、飯盒のふたにそそいで、全員で乾杯をした。
歩行不能の重傷者には、枕元に手榴弾と水がおかれ、我らゆくものはこれら残留者に対し、岡本軍医長の号令のもと全員の敬礼で無言の別れを告げたが、死を目前にひかえた厳粛な雰囲気の中では誰もが手を合わせ、あるいは祈りを捧げていたであろう。

午前1時30分---入口に近い者より順じゅんに洞窟をでる。
暗闇の中を4~5人ずつ、静かに集合地点に向かって進んで行ったが、途中、時折ちかくに砲弾が落下しては炸裂していた。

午前3時ーーー総攻撃部隊全員が、指定された第二飛行場の滑走路に集合した。
総攻撃指揮官上田猛虎中佐は、用意された壇上にのぼると、命令を下した。

「これより総攻撃を敢行、突撃する。ここに、これまでの全員の奮闘を感謝する。第一分隊より分隊順に進撃せよ!」

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃2~

2019-09-10 05:00:00 | 日記
翌7月6日午前10時頃、はやくも総攻撃の命令が下った・・・・

『攻撃日時ーーー明7月7日午前3時攻撃地区ーーータナバク水上基地付近の米軍。合言葉は「星にたなばた」陸、海軍、その他で、約50人を一分隊とし、午前2時半にバナデル第二飛行場の北部に集結のこと』

と決まり、総攻撃隊員は約2000名と考えられた。
総指揮官は261空司令・上田猛虎海軍中佐であった。

7月6日---この日は洞窟において終日、総攻撃準備のため全員とも、極めて多忙であった。
工作隊は鉄棒を鋭く研磨して槍を製作して配り、ほかの者は機銃、歩兵銃などの兵器弾薬の整備、そしてまた、手榴弾の使用法の確認などであった。
主計隊からは各人とも二日分の携帯食料(乾パン)と、水の配給をうけた。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)