毎年7月ごろから、テレビでは戦争や原爆に関する番組が放送されます。
今の若い人に見てほしいと思う番組は、なぜか深夜から未明なんて時間です。
年齢にもよりますが、いつもは深夜のお笑いやら女の子がずらりなんていう番組を見ていても、
今の時期は、こういうものを見てほしいと思っています。
今年は「ナチス」についての特集がありました。
昨夜は「トレブリンカ強制収容所」。ナチスが作った収容所はいくつもありますが、
ここは俗にいう「絶滅収容所」、つまり同じ収容所でも、最初のころは強制的に労働をさせることが目的、
絶滅の方は文字通り「ユダヤ」という民族を絶滅させるために、つまりひたすら殺すために作られた、
と言われている収容所です。列車で運ばれ、すぐにシャワー室に追い立てられ、ガスで殺したわけです。
ナチスは敗北が近づいてきたとき、収容所を焼き尽くしたり、大事なものを別の場所に移したりして、
その存在を必死で隠しましたから、トレブリンカ収容所も、場所はわかっていたものの、
最近まで証拠がなかなか見つかりませんでした。
戦後70年たとうかという今になっても、その研究と探索は続いています。
亡くなった人には、言葉に出して訴えることができません。
その「声なき声」を、今も探し続けているわけです。
全く話が変わって申し訳ないのですが、テレビで「暗闇を体験する」というリポートがありました。
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」といいます。サイトはこちら。ビッグローブの体験情報はこちら。
当日集まったひとたちに、白杖1本だけで、真の暗闇の部屋に入るわけです。
視覚障害者の方がいわば案内人で、順路やポイントを示してくれる、それにしたがって、
真っ暗な中でいろいろなことをするのだそうです。
季節によって、内容がかわるそうで、例えば書初めをするとか、お茶会を開くとか…。
そして終了した参加者が一様に言うことは「見えないことで、ほかの感覚が敏感になった」
そして「言葉で確認し合った」ということ。
つまり真っ暗闇では「ここに○○がありますよ」とか「私は○○です」とか、
そんな風に声に出して情報を交換することが、とても重要になるということですね。
テレビでは企画の介のあとで言ってましたが「暗闇の中では『想像力』が養われる」。
そして、終了後は、一緒に入った人たちとの距離が大きく縮まったと。
眼で見るものは、入ってくる情報のなかでの大きな割合を占めます。
またまた母の受け売りですが「おばぁちゃんが、よぅ言うてた。見てわからん者は言うてもわからん」。
つまり「眼から入ってくる情報をどれだけしっかり見るかで、その人がわかる」ということです。
その「眼」からの情報が全くなかったとき、人は当然まず「聴覚」と「触覚」で、その不足を補おうとします。
その時は「脳内で想像すること」が重要になります。
この「想像力」というものが、今の時代不足しているのではないかと、私は常々思っています。
今そこにあるもの、今起きていることだけでなく、自分の言ったこと、したことが、
相手を傷つけるかどうか、他人様に迷惑が掛からないかどうか、
もっというなら、それで他人様が自分を見る目が、どうなるか…。
この前も書きましたが「コミュニケーション・ツール」はどんどん進化していくのに、
人と人のコミュニケーションは薄れている気がする…のです。
数年も前のことですが、あるリポート…一人の大学生が、自分の関わる活動の集会で、
すでに社会人になっている先輩に協力を頼みました。
活動は無事終了したので、お礼を言おうと思った彼は「電話するかメールにするか迷った」わけです。
結局彼は「メール」を選びました。理由は「電話だと仕事中だったりして悪いかなと思ったし、
メールだと書き直したりの『添削と確認』ができるから」と。
これってちょっと聞くとなるほどね…ではありますが、おかしなところがあります。
「電話して仕事中だったら悪い」…まぁ相手の会社も仕事も立場もわかりませんけれど、
私用で申し訳ないと思うなら、時間外に電話すればいいし、
どうしても時間的に…なら会社にかけるときのエチケットもあります。
かけて本人が出たら「お仕事中に申し訳ありません。今大丈夫ですか」とか…。
私は彼の言ったことは、全部「実は電話で直接話すのがニガテ」という気持ちの表れだと思いました。
お礼をしなければ、というのはとても大事で正しい気持ちですが、その手段にメールで…というのは、
いかにもイマドキ風…と、私の年代では思ってしまいます。
人は便利になると、ついそちらに流れます。
メールは確かに便利ですが、実は手紙と同じです。直接話している気になっても、
見えているのは液晶画面の画一化された文字だけです。
暗闇の中で目が見えないのと同じように、画面上の文字しか手がかりがないのです。
「直に話す」ということは、本当に大切です。その時の声色や話し方、そして顔の表情など、
いろいろな情報を得ることができます。
その「情報」のほとんどがカットされてしまうメールは、その分「想像力」を働かさねばなりません。
それなのに、そんなことには関係なく「しゃべっている・聞いている」つもりでやりとりをする…。
LINEのお話で、ある学生がバイトに行くときスマホを忘れた・・・その間に書き込んだ人が
「○○から返事がこない」と書くと、別の仲間が「なんかあったか」「死んだんじゃないの」「じゃお花でも」と、
本人抜きでいろいろ話した…これで次の日、学校で彼の机に、白い花が飾られていたと…。
よく「既読」になってるのにコメントがないことが腹立たしい、とかなんとか、そんな話も聞きます。
私にはさっぱりわからない現象です。本当に心配ならケータイなんだから、直で電話すればいいことです。
元々ケータイ・メールなんてない時代、その前に家庭用FAXが出ました。電話では相手がいないこともあるけど、
FAXなら送っておけば、帰ってきたら読んでくれる…から便利だったわけです。
つまり電話で話すよりも「時間差」が生じることが当たり前…。
メールだって同じで、今、こちらが忙しかったり出先だったりで電話していられないから、
或いは相手がたぶん忙しくて電話に出られないから…メールしておけばそのうち読んでくれる…
その程度の道具ではないのでしょうか。
読んでるのにコメントがない、メールしたのにすぐ返事が来ない…
そんなにすぐ返事がほしければ、電話して直接「話せば」いいことでしょう。
また、読んだら読んだで、顔が見えないから「ウザい」とか「死ね」とか、平気で書く…。
直に言ったら怒って殴られるかもしれない?だからメールで?それじゃさらに卑怯ですね。
相手が直接傷つくことも想像できないんでしょうね。
言葉を話すことができる状態にあっても、収容所に送られた人たちは
何も言えずに殺されていきました。拒否も反論も、何もできなかったのです。
これは本当に恐ろしいこと、それが戦争というものです。
「声に出して話す」ということが、自由にできる私たちは、更に「見える」ことを最大限に使って、
五感を研ぎ澄まし、闇の中にいるときと同じように想像力を働かせて、
過去をみつめ、先を考えなければならないと、今日という日に改めて考えたいと思います。
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